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2015年6月26日 (金)

6月28日の「聖書と典礼」

6月28日『年間第13主日』

 

1朗読          知恵の書

( 1章13~15節、2章23~24節 )

「知恵の書」は、紀元前2世紀に書かれた。著者は、この個所で創世記13章の

創造の業を思い浮かべながら、人が正しく生きるべきことを述べる。

 

神が死を造られたわけではなく、
命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
世にある造られた物は価値がある。
滅びをもたらす毒はその中になく、
陰府がこの世を支配することもない。
義は不滅である。

神は人間を不滅な者として創造し、
御自分の本性の似姿として造られた。
悪魔のねたみによって死がこの世に入り、
悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。

 (註)生かすために……創世記27節参照。

 (註)陰府(よみ)……死者の領域のことであるが、ここでは死の力を意味する

 (註)ご自分の本性の荷姿……創世記12627節参照。人間は本来、神の永遠性にあずかっており、死は罪の結果であると考えられている。

 

 

2朗読 コリントの信徒への手紙Ⅱ

( 8章7節、9節、13~15節 )

コリントの隣のマケドニア州の信者が貧しいエルサレムの教会のために援助

したことを例にあげ、パウロはコリントの教会にも同様の援助を進める。

 

                             使徒パウロのコリントの教会への手紙

〔皆さん、〕あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。
 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。

「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、
  不足することはなかった」と書いてあるとおりです。

(註)貧しくなられた……フィリピ267節参照。

(註)多く集めた者も……出エジプト記1618節の引用。元は荒れ野の旅の中で

「マナ」について言われたことば。

 

 

福音朗読   マルコによる福音

52143節 )

ゲサラ人(異邦人)の地から帰ってきたイエスを大勢の群集が待ち受けていた。

救いを求めてイエスに向かってくる人々の信仰が描かれている。

 

〔そのとき、〕イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
 大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
《さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
 イエスがまだ話しておられるときに、》
会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

(註)会堂長……会堂の管理者であり、同時にその会堂に属するユダヤ人共同体のリーダーでもあった。

(註)出血……旧約書レビ記152530節にある女性の出血のこと。「汚れ」と考えられ、この女性に触れたものも汚れるとされていた。それゆえ、この女はひそかにイエスに近づいたのである。

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015628より)

2015年6月21日 (日)

6月21日の「聖書と典礼」(オリエンス宗教研究所発行より)

621『年間第12主日』

イエスは起き上がって、風を叱り

(マルコによる福音書 4章39節より)

 

 

1朗読  ヨ ブ 記

381節、811節)

苦しみの中にあるヨブと友人たちの長い対話ののち、この38章で神が語り始められる。神はご自分がこの世界を創造し、すべてを支配していることを示される。

 

主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
海は二つの扉を押し開いてほとばしり
母の胎から溢れ出た。
わたしは密雲をその着物とし
濃霧をその産着としてまとわせた。
しかし、わたしはそれに限界を定め
二つの扉にかんぬきを付け
「ここまでは来てもよいが越えてはならない。
高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。

(註)海は二つの扉を……日本聖書協会口語訳では「海の水が流れいで、体内から湧き出した時、だれが戸をもって、これを閉じ込めたか」と訳されている。なお、海は悪の領域と考えられた。

 

 

2朗読    Ⅱ使徒パウロのコリントの信徒への手紙

51417節)

コリントの教会には、キリストの使徒を装って偽りの福音を伝えようとする人々が入ってきた。(Ⅱコリント111215参照)。パウロはこのことに心を痛め、この手紙の中で、偽使徒に惑わされず自分が伝えた信仰を守るよう、コリントの信者に必死で訴えかける。

 

使徒パウロのコリントの教会への手紙

〔皆さん、〕キリストの愛がわたしたちを駆り立ててい〔ます〕。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた〔のです〕。

(註)肉に従って……「肉」は滅びるべき人間を指すことば。この個所は「人間的な基準で」という意味と考えられる。

(註)新しいもの……次節からパウロはキリストによってもたらされた、神との和解について語る。この新しさは神とのまったく新たな関係に生きることである。

 

 

マルコによる福音

   ガリラヤ湖畔で群衆に神の国のたとえを語ったイエスと弟子たちは異邦人の地へと向かう。

 

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスはの方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

(註)向こう岸……異邦人であるゲラサ人の地(マルコ51以下参照)

(註)艫……船の最後部。船尾。

(註)黙れ……悪霊に向けて言われた言葉と同じ(マルコ125参照)。悪の領域である海はイエスによって治められる。

2015年6月12日 (金)

6月14日の「聖書と典礼」(オリエンス宗教研究所発行より)

614『年間第11主日』

土はひとりでに実を結ばせる

(マルコによる福音書 428節より)

 

 

第一朗読  エゼキエルの預言

(17章22~24節)

わたしは高い木を低くする

〔 バビロン捕囚の時代にエゼキエルは、イスラエルの民を救い、エルサレムを回復させる神の裁きをレバノン杉にたとえて預言する。〕

 

 主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。

 (註)レバノン杉……「香柏(コウハク)」とも訳される。高さが30メートル近くにもなり、枝を大きく広げる美しい木。

 (註)高くそびえる山の上……ここではエルサレムのこと。

 

                             

第二朗読    コリントの信徒への手紙

(5章 6~10節)

体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。

〔 天の永遠の住みかを上に着る保証として、わたしたちに聖霊が与えられていることを確信しながらパウロは語る。〕

 

使徒パウロのコリントの教会への手紙

 〔皆さん、わたしたちは天に永遠の住みかが備えられていることを知っています。〕それで、わたしたちはいつも心強いのですが、を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 (註)体……ここでは目に見える人間の姿を表す。有限の、過ぎ去るものとしての人間のありさまを、パウロはこのことばで表現する。

 

 

福音朗読  マルコによる福音書

(4章26~34節)

からし種はどんな種よりも小さいが、どんな野菜よりも大きくなる。

〔 マルコ4章は、ガリラヤ湖畔で、群衆や弟子たちに向かって、たとえを用いて神の国について語るイエスの姿を伝える。〕

 

マルコによる福音

 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。

    実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 (註)からし種……種は12ミリ程度だが、成長すると23メートルにもなり、大きな枝を持つ。

2015年6月 5日 (金)

6月 7日の「聖書と典礼」から

『 キリストの聖体 』

これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である

(新約聖書 マルコによる福音14章24節より)

 

 

第1朗読        旧約聖書 出エジプト記

( 24章 3~ 8節 )

 

 〔その日、モーセは山から〕戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

 

〔※シナイ山のふもとで、神とイスラエルの民の間で行われた契約締結の儀式。新約との関係でいえばこれが「旧い契約」である。

 

(註)主のすべての言葉とすべての法……出エジプト記20章22~23、30章の  律法を指す。モーセだけがシナイ山に登って密雲の中で聞いた。

(註)契約の血……遊牧民の考えで、契約の際に動物の血を流すことは、その契約が命をかけたものであることを意味した。このことばはきょうの福音朗読にも見られる。

 

 

第二朗読      新約聖書 ヘブライ人への手紙

( 9章11~15節 )

 

 〔皆さん、〕キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠のによって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。

 

〔※旧約において祭司たちは礼拝のために聖所の幕屋に入ったが、その奥には大祭司が年に一度しか入れない至聖所があった。しかし、人が神に近づくことを妨げていたものはイエスによって取り除かれた。

 

(註)完全な幕屋……神の臨在を表す地上の幕屋(神殿の聖所)は「天の幕屋」のかたどりと考えられたが、ここでの「完全な幕屋」とは、キリストご自身の体のことであろう。

(註)永遠の財産……「遺産」とも訳せる。「契約」と訳された言葉には、「遺言」の意味もある。

 

                             

福音朗読       新約聖書 マルコによる福音

(14章1216節、2226節)

 

 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 

〔※イエスは弟子たちと共にされた最後の晩餐の中でこの新しい契約を残された。

 

(註)除酵祭……元は農耕祭であるが、過越祭と結び付けられた。過越祭の後の七日間、酵母を除いたパンを食べる。

(註)過越の子羊・・・・・・エジプト脱出の夜、イスラエルの民が子羊の血を家の入口に塗ったことから過越の記念として食された。イエスの時代には神殿で屠られた。

(註)契約の血……第1朗読 出エジプト記参照。

(註)神の国で新たに……これが弟子たちと共にする最後の食事であることを示すことば。

(註)賛美の歌……過越の食事の終わりに旧約聖書詩編115118が歌われた。

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