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2015年6月12日 (金)

6月14日の「聖書と典礼」(オリエンス宗教研究所発行より)

614『年間第11主日』

土はひとりでに実を結ばせる

(マルコによる福音書 428節より)

 

 

第一朗読  エゼキエルの預言

(17章22~24節)

わたしは高い木を低くする

〔 バビロン捕囚の時代にエゼキエルは、イスラエルの民を救い、エルサレムを回復させる神の裁きをレバノン杉にたとえて預言する。〕

 

 主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。

 (註)レバノン杉……「香柏(コウハク)」とも訳される。高さが30メートル近くにもなり、枝を大きく広げる美しい木。

 (註)高くそびえる山の上……ここではエルサレムのこと。

 

                             

第二朗読    コリントの信徒への手紙

(5章 6~10節)

体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。

〔 天の永遠の住みかを上に着る保証として、わたしたちに聖霊が与えられていることを確信しながらパウロは語る。〕

 

使徒パウロのコリントの教会への手紙

 〔皆さん、わたしたちは天に永遠の住みかが備えられていることを知っています。〕それで、わたしたちはいつも心強いのですが、を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 (註)体……ここでは目に見える人間の姿を表す。有限の、過ぎ去るものとしての人間のありさまを、パウロはこのことばで表現する。

 

 

福音朗読  マルコによる福音書

(4章26~34節)

からし種はどんな種よりも小さいが、どんな野菜よりも大きくなる。

〔 マルコ4章は、ガリラヤ湖畔で、群衆や弟子たちに向かって、たとえを用いて神の国について語るイエスの姿を伝える。〕

 

マルコによる福音

 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。

    実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 (註)からし種……種は12ミリ程度だが、成長すると23メートルにもなり、大きな枝を持つ。

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