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2015年7月24日 (金)

7月26日の「聖書と典礼」

7月 26日『年間第17主日』

なお残ったパンのくずで、12のかごがいっぱいになった。

(ヨハネによる福音 613節より)

 

 

第1朗読     列王記 下

44244節 )

預言者エリシャは紀元前9世紀の北イスラエルで活動した。

エリヤと同じように多くの物語が残されている。

 

〔ギルガルの地が飢饉に見舞われていたとき、〕一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人〔エリシャ〕のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。

(註)バアル・シャリシャ……エフライムの山地にあった町。ギルガルはエリコの近く。

(註)初物のパン……すべての初物は神のものとされ、ふつう聖所にささげられた。初物はまた最上のものを意味する。

 

 

2朗読      エフェソの信徒への手紙

416節 )

パウロはこの手紙の4章から、生活に関する勧めを与えるが、

そのはじめに一致を保つように教える。

 

使徒パウロのエフェソの教会への手紙

 〔皆さん、〕主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべて

のものを通して働き、すべてのものの内におられます。

 (註)囚人……パウロは牢獄からこの手紙を書いたとされている。(エフェソの信徒への手紙 620節参照)

(註)霊による一致……直訳は「霊の一致」であるが、単なる心や思いの結びつきではなく、聖霊によってもたらされる一致のこと。

 

 

福音朗読         ヨハネによる福音

6115節 )

このパンと魚の出来事は、四つの福音書すべてに伝えられている出来事である。

マルコ福音書では、先週の箇所の続きが五つのパンと二匹の魚を群集に分け与える場面であるが、今年(B年)の朗読配分では同じ話をヨハネ福音書から読む。

 

〔そのとき、〕イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

(註)デナリオン……当時の労働者の1日の賃金。

(註)パンを取り……この一連の動作は最後の晩餐の席での動作を思わせる。

(註)パンの屑……元の意味は「裂かれたもの」。屑というよりも「かけら」である。

(註)世に来られる預言者……申命記181518節に述べられたモーセのような権威を持つ預言者。

(註)王にする……ここでは政治的な指導者としての王の意味。イエスはご自分に対する人々のこのような期待を拒否する。(ヨハネ福音書183337節参照)

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・7・26より)

2015年7月18日 (土)

7月19日の「聖書と典礼」

7月 19日『年間第16主日』

 

第1朗読         エレミヤ書

          ( 23章 1~ 6節 )

ユダ王国の末期、ユダの王たちの罪に対して、エレミヤは裁きの言葉を

伝えるとともに、ユダの回復という大きな救いの希望をも示す。

 

エレミヤの預言

「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は

言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。
 「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。
 「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。

見よ、このような日が来る、と主は言われる。
  わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
  王は治め、栄え
  この国に正義と恵みの業を行う。
 
 彼の代にユダは救われ
  イスラエルは安らかに住む。
  彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

(註)私の牧場の羊……ユダの人々のこと。次の「牧場」はユダの歴代の王のことである(エゼキエル書34章参照)。

(註)ダビデ……イスラエルの王家の祖。

(註)正しい若枝……ダビデの再来であるような理想的な王「メシア」のこと。

 

 

第2朗読  使徒パウロのエフェソの信徒への手紙

( 2章13~18節 )

エフェソは、エーゲ海に面した小アジア(今のトルコ)の港町。

この異邦人の町でパウロは3年間、宣教活動をし、エフェソの教会を育てた。

この個所では、ユダヤ人と異邦人を隔てていた壁がキリストによって

取り払われたことをパウロは力強く述べている。

 

パウロのエフェソの教会への手紙

 〔皆さん、〕あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

(註)一つの体……キリストを信じる人々の集い(教会)をパウロはキリストの体という。

 

 

福音朗読             マルコによる福音書

( 6章30~34節)

マルコによる福音書6章7~13節で、イエスは12人の弟子を宣教に

派遣した。この弟子たちは、使命を果たして、

再びイエスのもとに集まって来た。

 

マルコによる福音

〔そのとき、〕使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

(註)行ったことや教えたこと……弟子たちは、悪霊を押し出し、病人を癒して、神の国を宣べ伝えた。

 

(註)飼い主のいない羊……羊は弱い動物なので、飼い主がいないと野の獣のえじきにされてしまう。(民数記27章17節、ゼカリヤ書10章2節、エゼキエル書348節参照。)

 

* (オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・7・19より)

2015年7月10日 (金)

7月12日の「聖書と典礼」

7月 12日『年間第15主日』

 

1朗読          アモス書

71215節 )

アモスは紀元前8世紀の預言者で、おそらくユダ(南王国)の出身であったが、北イスラエル王国で活動した。当時の社会の中にアモスは不正義を見、その罪を糾弾し、イスラエルの滅亡を予告したため、ベテルの祭司アマツヤなど支配階級から敵視されるようになった。

 

アモスの預言

〔その日、ベテルの祭司〕アマツヤはアモスに言った。
 「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。
 〔ところが、〕主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」

(註)ベテル……分裂王国時代、ヤロブアム世によって北王国の聖所とされた町。

(註)預言者……職業的な預言者団があったと考えらている。

 

 

2朗読       エフェソの信徒への手紙

1314節 )

エフェソ書の冒頭の賛美が読まれる。

原文では314節が一つの文になっている。

 

使徒パウロのエフェソの教会への手紙

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。

神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
 
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

(註)天地創造の前に・・・……時間的な順序というよりも、神が人を救おうとされた遠大な計画の素晴らしさと確かさを強調するために、パウロはこのように語る。

(註)秘められた計画……すべてのものがキリストのうちに一つにまとめられること。特にユダヤ人と異邦人の区別が取り払われたこと。

(註)頭であるキリスト……キリストはご自分の体である教会の頭であるが、ここではさらに宇宙的な広がりを感じさせる。

(註)わたしたち……1113節の「わたしたち」はパウロ自信を含むユダヤ人、「あなたがた」は異邦人のことを指す。

(註)聖霊で証印を押された……洗礼・堅信という入神の儀式を指すとも考えられる。

(註)保証……今わたしたちに与えられている聖霊が、将来の完全な救いにあずかる「手付」のように考えられている。(コリントの信徒への手紙Ⅱ122節、55節参照。)

 

 

福音朗読     マルコによる福音

( 6 713節 )

マルコによる福音313節以下でイエスによってえらばれた

12人の弟子が、ここで派遣される。

 

〔そのとき、イエスは〕十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

(註)十二人……イスラエルの十二部族からとられた数で、新しい神の民を暗示している。

(註)袋……喜捨を入れるための袋。

(註)下着は2枚着てはならない……重ね着してはならない、すなわち、野宿の用意をせず、宿を貸してくれる人の好意と神の配慮に自分をゆだねよ、という指示であるとも考えられる。

(註)足の裏の埃を・・・……その土地を異邦人の土地とみなすという絶縁のしぐさ(使徒言行録1351節参照)。

(註)油を塗って・・・……これは、初代教会でも実践されていた(ヤコブの手紙514節参照)。

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・7・12より)

2015年7月 4日 (土)

7月 5日の「聖書と典礼」

7月 5日『年間第14主日』

 

 

1朗読  エゼキエルの預言

2 25節 )

紀元前6世紀、捕囚の地バビロンで、エゼキエルが預言者として召し出される場面。彼は神の栄光の顕現に接してひれ伏し、神の声を聞いた。

 

 〔その日、〕霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。

わたしは語りかける者に耳を傾けた。主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」

(註)反逆の民……バビロニア捕囚が起こったのは、神に対する民の不従順(反逆)のためであった。エゼキエルの使命は、この民に回心を呼び掛けることである。

 

 

2朗読    使徒パウロのコリントの信徒への手紙Ⅱ

127b10節)

パウロはコリントの教会の中に現れた偽使徒の問題に心を痛めていた。それらの人々は「自己推薦する者」だった。そこでパウロは「誇るものは主を誇れ」

(コリントⅡ 1017節 又は、コリントⅠ 31節 参照)と言う。

 

使徒パウロのコリントの教会への手紙

〔皆さん、わたしが〕思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

(註)とげ……何らかの病気や疾患のことであると考えられる。ガラテヤ41314節には、「…私は、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに…」と述べられている。

(註)サタンから送られた使い……サタンは人を神から引き離す力の源。パウロは「とげ」を、福音宣教の指名の遂行を妨げるものと考えていたので、こう言っている。

 

 

福音朗読         マルコによる福音

( 6章 1 6節 )

ガリラヤ地方を巡って宣教していたイエスとその一行は、

イエスの育った地ナザレに行く。

 

〔そのとき、〕イエスは故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。
 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

(註)兄弟 姉妹……ヘブライ語やアラム語には「いとこ」にあたることばがなく、「兄弟」「姉妹」という言葉に、近い親戚が含まれていると言われる。

(註)イエスにつまずいた……直訳は「イエスによってつまずいた」。イエスのことを知っていると思い込むことによって、かえってイエスがだれであるかを理解できなくなったことを意味するようである。フランシスコ会訳聖書では「人々はイエスを理解しようとしなかった」と訳している。

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・7・5より)

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