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2015年8月22日 (土)

8月23日の「聖書と典礼」

8月23『年間第21主日』

主よ、……あなたは永遠の命の言葉を持っておられます

( ヨハネによる福音 668節より )

 

1朗読             ヨシュア記

2412a1517節、18b

イスラエルの民を率いて、ヨルダン川を渡り、

約束の地カナンに入ったヨシュアは老人になった。

世を去る前に、ヨシュアは神に従う決断をもう一度民全体に求める。

 

ヨシュア記

 〔その日、〕ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると、ヨシュアは民全員に告げた。
 「もし主に仕えたくないというならば、〔ユーフラテス〕川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
 民は答えた。
 「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」

(註)シケム……カナンのほぼ中心に位置する町で、カナン定住後のイスラエルの12部族の中心地となった。

(註)川の向こう側……アブラハムの故郷カルデアのウルの神々が考えられているが、創世記にはイスラエルの先祖が他の神々を拝したということは記されていない。

(註)アモリ人の神々……アモリ人は、ここではパレスチナ先住民を総称した名で、その神々とはバアル、アシラなどである。

 

 

2朗読       エフェソの信徒への手紙

52132節 )

主に結ばれた「光の子」(エフェソ58節)としての生き方の

具体的な姿として「つかえ合う」ことをパウロは求め、

はじめに夫婦の関係について語る。

 

使徒パウロのエフェソの教会への手紙

〔皆さん、〕キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。

(註)愛し……2224節の「仕える」とは別の言葉が用いられているが、「仕える」と「愛する」を特に区別しているわけではない。互いに仕えあうこと(21節)を別の表現で述べているのである。

(註)言葉を伴う水の洗い……洗礼式のことが考えられているのであろう。

(註)わが身……直訳では「自分の肉」。このことばは31節の「一体」(直訳では「一つの肉」)と結びついている。

(註)それゆえ、人は……創世記224節、マタイ195節参照。パウロはこのことばを夫と妻の関係だけでなく、キリストと教会の関係を示すものと受け取っている。(32節参照)。

 

 

福音朗読        ヨハネによる福音

66069節 )

Iイエスが語った「わたしの肉を食べ、血を飲む」(54節)

という言葉を人々は理解できず、イエスにつまずく。

 

ヨハネによる福音

〔そのとき、〕弟子たちの多くの者は〔イエスの話〕を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのはである。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

(註)霊肉……聖書の中で「霊」と「肉」が対比されるとき、「霊」は人の内に働く神の力、神との交わりそのものを表し、霊こそが命の原理である。一方の「肉」は神から切り離され、滅びゆくものとしての人間の状態を示す。

(註)父からお許しが……44節参照。

(註)離れ去り……直訳すれば<背を向けて去り>となる。

(註)主よ、わたしたちは……わたしたちが用いている聖体拝領前の信仰告白のことばは、マタイ1616節とこのことばとを組み合わせたものである。

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・ 8・23より)

 

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