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2015年8月 9日 (日)

8月 9日の「聖書と典礼」

8月 9『年間第19主日』

「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」

( 列王記上 197節より )

 

1朗読          列王記上

1948節 )

紀元前9世紀、イスラエルの王アハブはシドン人イゼベルを王妃として

迎え、バアル信仰を導入した。預言者エリヤはこれに反対したため、

命を狙われることになった。

 

列王記

〔その日、王妃イゼベルが自分を殺そうとしていることを知ったエリヤは、〕荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。

(註)えにしだ……「レダマ」とも言う。2メートルほどの高さの灌木で、木陰は小さい。

(註)パン菓子……丸く平らなパン。古くは焼灰や加熱した石の上で焼くのが普通だった。

(註)四十日四十夜……モーセが幕屋の律法を受けるためにシナイ山にいた日数と同じ(出エジプト記2418節)。イスラエルの民が荒れ野を旅した年数も同じ数。ここでは、苦しみや試練とその中での神の保護を象徴する数であろう。

(註)ホレブ……シナイ山とも呼ばれる。モーセが神に出会った場所であり、また、イスラエルの民が神と契約を結んだ場所でもある。

 

 

2朗読      エフェソの信徒への手紙

430節~52節 )

まったくの恵みによって聖霊を注がれ、神の子どもとされたエフェソの

人々に対して、パウロはキリストに結ばれた新しい生き方を求める。

 

使徒パウロのエフェソの教会への手紙

〔皆さん、〕神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

(註)聖霊を悲しませ……イザヤ書6310節参照。

(註)贖いの日……キリストの再臨は、信じる者たちにとって、贖い(解放)の時である。(ルカによる福音2128節参照)。

(註)香りのよい供え物……旧約の犠牲祭儀のことば(出エジプト記2918節、レビ記12章など参照)。ここではイエスの十字架のことを言う。

 

 

福音朗読         ヨハネによる福音

651節 )

パンをめぐるイエスと人々との対話の中で、

イエスとはどいう方かが次第に明らかにされていく。

 

ヨハネによる福音

〔そのとき、〕ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

(註)つぶやき……かってイスラエルの民が荒れ野でモーセと神に不平を言った時の「つぶやき」を連想させる(出エジプト記1623節、民数記111節参照)。

(註)彼らは皆、神によって……イザヤ書5413節のことば。新共同訳のこの個所は「あなたの子らは皆、主について教えを受け」と訳されている。

(註)わたしが与えるパン……いつの間にか、イエスはパンそのものから、パンを与える方になっている。つまり、ここから直接「聖体」のことが語られる。

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・ 8・ 9より)

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