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2015年8月30日 (日)

8月30日の「聖書と典礼」

8月30日『年間第22主日』

皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい

( マルコによる福音 714節より )

 

 

1朗読          申 命 記

( 412節、68)

エジプトを脱出したイスラエルの民は、

40年後にようやくヨルダン川の東岸についた。

約束の地を目の前にしてモーセは民に語りかける。

 

 

申命記

〔モーセは民に言った。〕イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。
 あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。

(註)掟と法を忠実に行いなさい……直訳すると「掟と法を聞きなさい」。申命記では、神に聞き従うよう、たびたび命じられる(645節、112728節)

 

 

2朗読         ヤコブの手紙

11718節、21b~22節、27節)

「ヤコブの手紙」は、ユダヤ人キリスト者の中で生まれた説教のような

内容であり、信仰生活の実践面が強調されている。

 

使徒ヤコブの手紙

〔わたしの愛する兄弟たち、〕良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
 心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

(註)真理の言葉……イエス・キリストによる救いの福音を指す。続く「生む」は、神による新たな創造を意味する。

(註)みなしごや、やもめ……旧約聖書において社会的な弱者の代表とされている。

 

 

福音朗読         マルコによる福音

718節、1415節、2123節 )

福音朗読は、先週までヨハネ6章が読まれてきたが、

今週から再びマルコに戻り、ガリラヤでのイエスの活動を伝える。

 

 

マルコによる福音

〔そのとき、〕ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
  『この民は口先ではわたしを敬うが、
   その心はわたしから遠く離れている。
   人間の戒めを教えとしておしえ、
   むなしくわたしをあがめている。』
あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

(註)洗わない手……食事の前に手を洗わなければならないという律法はないが、ファリサイハ派は、日常生活に用いた手を宗教的にけがれていると考えていた。

(註)市場……市場には異邦人の証人もいるので、特に汚れを受けやすい場所と考えられていたようである。

(註)この民は……イザヤ書2913節の引用(70人訳ギリシャ語旧約聖書に基づく)。

(註)外から人の体に入るもの……食べ物のこと。旧約聖書には、食べてよいものと食べてはならない者に関する様々な規定があったが、キリスト教はその一切の規定を破棄した。

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・ 8・30より)

 

2015年8月22日 (土)

8月23日の「聖書と典礼」

8月23『年間第21主日』

主よ、……あなたは永遠の命の言葉を持っておられます

( ヨハネによる福音 668節より )

 

1朗読             ヨシュア記

2412a1517節、18b

イスラエルの民を率いて、ヨルダン川を渡り、

約束の地カナンに入ったヨシュアは老人になった。

世を去る前に、ヨシュアは神に従う決断をもう一度民全体に求める。

 

ヨシュア記

 〔その日、〕ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると、ヨシュアは民全員に告げた。
 「もし主に仕えたくないというならば、〔ユーフラテス〕川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
 民は答えた。
 「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」

(註)シケム……カナンのほぼ中心に位置する町で、カナン定住後のイスラエルの12部族の中心地となった。

(註)川の向こう側……アブラハムの故郷カルデアのウルの神々が考えられているが、創世記にはイスラエルの先祖が他の神々を拝したということは記されていない。

(註)アモリ人の神々……アモリ人は、ここではパレスチナ先住民を総称した名で、その神々とはバアル、アシラなどである。

 

 

2朗読       エフェソの信徒への手紙

52132節 )

主に結ばれた「光の子」(エフェソ58節)としての生き方の

具体的な姿として「つかえ合う」ことをパウロは求め、

はじめに夫婦の関係について語る。

 

使徒パウロのエフェソの教会への手紙

〔皆さん、〕キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。

(註)愛し……2224節の「仕える」とは別の言葉が用いられているが、「仕える」と「愛する」を特に区別しているわけではない。互いに仕えあうこと(21節)を別の表現で述べているのである。

(註)言葉を伴う水の洗い……洗礼式のことが考えられているのであろう。

(註)わが身……直訳では「自分の肉」。このことばは31節の「一体」(直訳では「一つの肉」)と結びついている。

(註)それゆえ、人は……創世記224節、マタイ195節参照。パウロはこのことばを夫と妻の関係だけでなく、キリストと教会の関係を示すものと受け取っている。(32節参照)。

 

 

福音朗読        ヨハネによる福音

66069節 )

Iイエスが語った「わたしの肉を食べ、血を飲む」(54節)

という言葉を人々は理解できず、イエスにつまずく。

 

ヨハネによる福音

〔そのとき、〕弟子たちの多くの者は〔イエスの話〕を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのはである。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

(註)霊肉……聖書の中で「霊」と「肉」が対比されるとき、「霊」は人の内に働く神の力、神との交わりそのものを表し、霊こそが命の原理である。一方の「肉」は神から切り離され、滅びゆくものとしての人間の状態を示す。

(註)父からお許しが……44節参照。

(註)離れ去り……直訳すれば<背を向けて去り>となる。

(註)主よ、わたしたちは……わたしたちが用いている聖体拝領前の信仰告白のことばは、マタイ1616節とこのことばとを組み合わせたものである。

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・ 8・23より)

 

2015年8月16日 (日)

8月16日の「聖書と典礼」

8月16日『年間第20主日』

わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である

(ヨハネによる福音 655節より)

 

 

1朗読                箴 言

916節 )

『箴言』では創造のときから神とともにあった知恵が擬人化して語られる。

ここではその知恵が人々を招く。この個所の後の91318節は、

「愚かさ」の招きを擬人化した、対照的な内容になっている。

 

 箴 言

知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。
獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え
はしためを町の高い所に遣わして
呼びかけさせた。
「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」
意志の弱い者にはこう言った。
「わたしのパンを食べ
わたしが調合した酒を飲むがよい
浅はかさを捨て、命を得るために
分別の道を進むために。」

 (註)七本の柱……多くの柱は宮殿のような建物の特徴である。

   (註)酒を調合し……ぶどう酒に香料やはち蜜を混ぜること。

   (註)意志の弱いもの……別の訳では「知恵のない者」「分別に欠けたもの」

 

 

2朗読             エフェソの信徒への手紙

51520節 )

キリストによって闇から光へと招き入れられたキリスト者の

「光の子として歩む」(58節参照)道が示される。

 

使徒パウロのエフェソの教会への手紙

〔皆さん、〕愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

(註)愚か 賢い……ここで問題になっているのは人間的な知恵ではなく、何が主に喜ばれることであるかを知る信仰者としての知恵である。

(註)詩編と賛歌の霊的な歌……この三つは、旧約聖書の詩編詩編以外の創作された賛歌、即興的な賛美の歌のことだとされるが、ここではそれらの区別が問題になっているわけではない。

 

 

福音朗読                ヨハネによる福音

65158節 )

ヨハネ6章で、五つのパンの軌跡で始まったパンについての

長い対話と説教は、この個所ではっきりと「聖体」がテーマとなる。

 

ヨハネによる福音

〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」  

(註)血を飲む……生き物の血を飲むことは律法で固く禁じられており(レビ記171014節参照)、この表現はユダヤ人に衝撃を与えるものである。

(註)内にいる……ヨハネ福音書の中で、互いに相手の「内にいる」という表現は、御父と御子の関係についても言われている。両者の深い一致を表す表現である。

(註)先祖が食べた……イスラエルの民は荒れ野でマナを食べた(出エジプト記16章参照)。

                             

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・ 8・16より)

8月15日の「聖書と典礼」

8月15日『聖母の被昇天』

いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう。

(ルカによる福音 148節より)

 

 

1朗読         ヨハネの黙示録

1119a、12章16節、10ab

ここに現れる一人の女性の姿の中に、教会とその母であるマリアの姿を

見るのがカトリック教会の伝統である。

 

ヨハネの黙示

天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え〔た。〕
 また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。
 わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。
 「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。」

(註)契約の箱……旧約時代の神殿では、神の現存のしるしである契約の箱は至聖所の幕の奥にあり、見ることができなかった。

(註)一人の女……旧約と新約の神の民全体を表すという考えが一般的である。

(註)十二の星……イスラエルの12部族、また、新約の12使徒を暗示する。

(註)子を産む痛みと苦しみ……エバを思い出させる表現(創世記316節参照)。

(註)竜……サタンのこと

(註)七つの頭……バビロニアの悪魔の象徴的な姿。

(註)十本の角……ダニエル書77節からとられたイメージ。

(註)男の子……イエスのこと。

 

 

2朗読       コリントの信徒への手紙

( Ⅰコリントの信徒への手紙152027a

パウロはキリストが復活したこと、そして、このキリストの復活にこそ、

わたしたちの希望がかかっていることを力強く述べる。

 

使徒パウロのコリントの教会への手紙

〔皆さん、〕キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。

(註)初穂……最初の実りのことであり、その後に多くの実りが続くことを表すことば。

(註)キリストに属している人たち……この第1人者であるマリアがキリストの復活に完全にあずかるものとなった、と教会は信じる。

(註)神は……詩編87節参照。

 

 

福音朗読         ルカによる福音

13956節 )

イエスを身ごもったことを知ったマリアは洗礼者ヨハネを身ごもっている

エリザベトのもとに行った。エリザベトや、救いを待ち望むすべての人と

心を合わせてマリアは神の救いの業をたたえる。

 

ルカによる福音

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
 そこで、マリアは言った。
 「わたしの魂は主をあがめ、
 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも
 目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も
 わたしを幸いな者と言うでしょう、
 力ある方が、
 わたしに偉大なことをなさいましたから。
 その御名は尊く、
 その憐れみは代々に限りなく、
 主を畏れる者に及びます。
 主はその腕で力を振るい、
 思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、
 身分の低い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、
 富める者を空腹のまま追い返されます。
 その僕イスラエルを受け入れて、
 憐れみをお忘れになりません、
 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

(註)出かけて……マリアはガリラヤのナザレに住んでいた。

(註)女の中で祝福された方……ヘブライ的表現で「もっとも祝福された女」の意味(士師記524節参照)。

(註)わたしの魂は……このマリアの歌は旧約のハンナの歌(サムエル記上2110節)に似ている。イエスを身ごもったマリアの個人的な賛美に始まるが、後半では救いを待ち望むすべての人の祈りになっていく。教会はこの歌を「教会の祈り」の中で毎晩、自分たちの祈りとして歌う。

(註)身分の低い……直訳では「はしための身分の低さ」。歌の中の「身分の低い者」の救いにつながるようなことば。

(註)尊く……「聖である」こと。神が「聖である」ことは、その救いのことばによって示される(レビ記1145節など参照)。

(註)畏れる……「恐怖」というより、神との関係の中で人間が感じ取る無力さ・小ささを表すことば。そこからさらに神に対する人間の正しい態度全体(信頼や愛をも含む)を表すことになる。

(註)僕(しもべ)イスラエル……イザヤ書418節、493節参照。イザヤ書4055章では、捕囚の苦しみの中にある民や迫害される預言者自身が、このように呼ばれている。

(註)アブラハムとその子孫……神の約束を受けた人々の意味。新約聖書では、これは特定の民族を超えて、神を信じ、救いにあずかるすべての人を指す(ルカによる福音38節、ローマの信徒への手紙411節参照)。イエスは特に、救いを必要としている病人や罪びとを「アブラハムの子孫」と呼んだ(ルカによる福音1316節、199節参照)。

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・ 8・ 9より)

 

祭日『聖母の被昇天』について

5世紀のエルサレムで8月15日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会で祝われるようになった。7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、マリアの被昇天の名で知られるようになったのは、8世紀になってからである。
 1950年ピオ12世教皇は、マリアが霊肉ともに天に上げられたことを教義として宣言した。教会は、キリストと最も深く結ばれていたマリアが、真っ先にキリストの復活と栄光にあずかっていることを祝っている。(カトリック中央協議会刊/日本カトリック典礼委員会編・監修『毎日の読書』より)

2015年8月 9日 (日)

8月 9日の「聖書と典礼」

8月 9『年間第19主日』

「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」

( 列王記上 197節より )

 

1朗読          列王記上

1948節 )

紀元前9世紀、イスラエルの王アハブはシドン人イゼベルを王妃として

迎え、バアル信仰を導入した。預言者エリヤはこれに反対したため、

命を狙われることになった。

 

列王記

〔その日、王妃イゼベルが自分を殺そうとしていることを知ったエリヤは、〕荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。

(註)えにしだ……「レダマ」とも言う。2メートルほどの高さの灌木で、木陰は小さい。

(註)パン菓子……丸く平らなパン。古くは焼灰や加熱した石の上で焼くのが普通だった。

(註)四十日四十夜……モーセが幕屋の律法を受けるためにシナイ山にいた日数と同じ(出エジプト記2418節)。イスラエルの民が荒れ野を旅した年数も同じ数。ここでは、苦しみや試練とその中での神の保護を象徴する数であろう。

(註)ホレブ……シナイ山とも呼ばれる。モーセが神に出会った場所であり、また、イスラエルの民が神と契約を結んだ場所でもある。

 

 

2朗読      エフェソの信徒への手紙

430節~52節 )

まったくの恵みによって聖霊を注がれ、神の子どもとされたエフェソの

人々に対して、パウロはキリストに結ばれた新しい生き方を求める。

 

使徒パウロのエフェソの教会への手紙

〔皆さん、〕神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

(註)聖霊を悲しませ……イザヤ書6310節参照。

(註)贖いの日……キリストの再臨は、信じる者たちにとって、贖い(解放)の時である。(ルカによる福音2128節参照)。

(註)香りのよい供え物……旧約の犠牲祭儀のことば(出エジプト記2918節、レビ記12章など参照)。ここではイエスの十字架のことを言う。

 

 

福音朗読         ヨハネによる福音

651節 )

パンをめぐるイエスと人々との対話の中で、

イエスとはどいう方かが次第に明らかにされていく。

 

ヨハネによる福音

〔そのとき、〕ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

(註)つぶやき……かってイスラエルの民が荒れ野でモーセと神に不平を言った時の「つぶやき」を連想させる(出エジプト記1623節、民数記111節参照)。

(註)彼らは皆、神によって……イザヤ書5413節のことば。新共同訳のこの個所は「あなたの子らは皆、主について教えを受け」と訳されている。

(註)わたしが与えるパン……いつの間にか、イエスはパンそのものから、パンを与える方になっている。つまり、ここから直接「聖体」のことが語られる。

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・ 8・ 9より)

2015年8月 1日 (土)

8月 2日の「聖書と典礼」

8月 2日『年間第18主日』

見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる

( 出エジプト記164節より )

 

 

1朗読           出エジプト記

1624節、1215節 )

エジプトに奴隷状態から解放されたイスラエルの民を

待ち受けていたのは過酷な荒れ野の旅であった。

 

出エジプト記

   荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに

  向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。
    「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。

      あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べら

      れたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢

え死にさせようとしている。」
     主はモーセに言われた。
     「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て

行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。
 わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。
 「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」

(註)荒れ野……エジプトを出たイスラエルの民が最初に入ったシナイ半島の中西部の荒れ野。「シンの荒れ野」と呼ばれる。

(註)うずらが・・・宿営を覆い……ここでは詳しく言及されないが、大量のうずらが宿営の近くに落ち、民の食べ物となったことを暗示する。(民数記113134節参照)

(註)露が・・・残っていた……1631節で「マナ」と名付けられる食べ物。そこでは「コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした」と記されている。(民数記117~9節参照)

 

 

2朗読       エフェソの信徒への手紙

417節、2024節 )

異教祭儀の中心地でもあったエフェソでパウロは3年間宣教活動をした。

 

使徒パウロのエフェソの教会への手紙

〔皆さん、〕わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩〔んでいます。〕しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

(註)異邦人……キリストを知らないエフェソの人々のことを指す。キリスト者になった人も、以前は同じような生き方をしていた。

(註)古い人・・・新しい人……コロサイの信徒への手紙3910節でも同様の表現が使われている。

 

 

福音朗読           ヨハネによる福音

62435節 )

5つのパンと2匹の魚を5千人に分け与えた翌日、

イエスを捜して多くの人が集まってきた。

 

ヨハネによる福音

〔五千人がパンを食べた翌日、その場所に集まった〕群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

(註)しるし……ヨハネ福音書において奇跡は「しるし」と呼ばれる。しるしは、イエスがどのような方であるかを示す出来事である。

(註)認証された……原語は「証印を押した」。イエスが人の子(すなわちメシア)であることを神が確かに認めた、という意味である。

(註)神の業……「神の求める働き」のことで、前節で「働きなさい」とあるのに答えて、人々はこう問い返した。

(註)天からのパンを……詩編7824節(今日の答唱詩編)の引用。なお、第1朗読を参照のこと。

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・ 8・ 2より)

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