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2015年8月16日 (日)

8月16日の「聖書と典礼」

8月16日『年間第20主日』

わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である

(ヨハネによる福音 655節より)

 

 

1朗読                箴 言

916節 )

『箴言』では創造のときから神とともにあった知恵が擬人化して語られる。

ここではその知恵が人々を招く。この個所の後の91318節は、

「愚かさ」の招きを擬人化した、対照的な内容になっている。

 

 箴 言

知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。
獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え
はしためを町の高い所に遣わして
呼びかけさせた。
「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」
意志の弱い者にはこう言った。
「わたしのパンを食べ
わたしが調合した酒を飲むがよい
浅はかさを捨て、命を得るために
分別の道を進むために。」

 (註)七本の柱……多くの柱は宮殿のような建物の特徴である。

   (註)酒を調合し……ぶどう酒に香料やはち蜜を混ぜること。

   (註)意志の弱いもの……別の訳では「知恵のない者」「分別に欠けたもの」

 

 

2朗読             エフェソの信徒への手紙

51520節 )

キリストによって闇から光へと招き入れられたキリスト者の

「光の子として歩む」(58節参照)道が示される。

 

使徒パウロのエフェソの教会への手紙

〔皆さん、〕愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

(註)愚か 賢い……ここで問題になっているのは人間的な知恵ではなく、何が主に喜ばれることであるかを知る信仰者としての知恵である。

(註)詩編と賛歌の霊的な歌……この三つは、旧約聖書の詩編詩編以外の創作された賛歌、即興的な賛美の歌のことだとされるが、ここではそれらの区別が問題になっているわけではない。

 

 

福音朗読                ヨハネによる福音

65158節 )

ヨハネ6章で、五つのパンの軌跡で始まったパンについての

長い対話と説教は、この個所ではっきりと「聖体」がテーマとなる。

 

ヨハネによる福音

〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」  

(註)血を飲む……生き物の血を飲むことは律法で固く禁じられており(レビ記171014節参照)、この表現はユダヤ人に衝撃を与えるものである。

(註)内にいる……ヨハネ福音書の中で、互いに相手の「内にいる」という表現は、御父と御子の関係についても言われている。両者の深い一致を表す表現である。

(註)先祖が食べた……イスラエルの民は荒れ野でマナを食べた(出エジプト記16章参照)。

                             

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・ 8・16より)

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