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2015年9月28日 (月)

9月27日の「聖書と典礼」

9月27日『年間第26主日』

「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが

預言者になればよいと切望しているのだ。」

( 民数記1129節より )

 

 

 

1朗読           民数記

( 11章25~29節 )

荒れ野の旅の途中、イスラエルの民はたびたび主とモーセに逆らった。

モーセがこの民を重荷と感じて主に訴えると、

主はモーセと共にその重荷を負う70人の長老を選ぶよう命じられた。

 

 

民数記

〔その日、〕主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。
 宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」

 

(註)預言状態……ここでは、神との深い交わりの中で語り、行動することを指しているのであろう。

(註)幕屋……「臨在の幕屋」と言われる。神がそこに降り、神と人とが語る場。

 

 

 

第2朗読          ヤコブの手紙

( 5章1~6節 )

「神は世の貧しい人たちをあえて選んだ」(25節)というヤコブは、

この個所で富裕な地主たちに対して厳しい警告を発する。

 

 

使徒ヤコブの手紙

富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。

 

(註)富は朽ち果て……マタイ619節参照。

(註)終の時のために宝を蓄えた……神の決定的な裁きという観点からヤコブは語っており、そこではもはや朽ちるはずのない金銀もさびつき、それ自体が罰となる。

(註)正しい人……罪のない貧しい人々のことであるが、キリストのことをも思わせる。

 

 

 

福音朗読         マルコによる福音

93843節、45節、4748節 )

イエスは二度目の受難予告に続いて、

弟子たちに「仕える者になること」を求めた。

ここでは使えるものである弟子のあるべき姿が示される。

 

 

マルコによる福音       

〔そのとき、〕ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。
 わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」

 

(註)小さなもの……無力で弱い立場にある信者のこと。

(註)大きな石臼……上の石をロバに引かせて回す仕組みになっているもの。

(註)地獄……原語「ゲヘンナ」は元来、エルサレムの南西にある「ヒンノムの谷」のことだが、かって幼児犠牲が行われたことなどから、呪われた地とされ、新約聖書では、永遠の罰を受ける場の意味になった。

 

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015・ 9・27より)

 

2015年9月18日 (金)

9月20日の「聖書と典礼」

9月20日『年間第25主日』

「彼を不名誉な死に追いやろう」

( 第1朗読主題句 知恵の書 220節より )

 

 

1朗読          知恵の書

212節、1720節 )

神に逆らう者の人生観が述べられる中の一節。

この神に逆らうものは、死によってすべてが終わるのだから、

生きているうちに快楽にふけろうという考えを持っている。

キリスト信者にとっては、この個所全体がキリストの

受難を思い起こさせるであろう。

 

知恵の書

〔神に逆らう者は言う。〕
「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。
我々のすることに反対し、
律法に背くといって我々をとがめ
教訓に反するといって非難するのだから。
彼の言葉が真実かどうか見てやろう。
生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。
本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。
敵の手から救い出されるはずだ。
暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。
その寛容ぶりを知るために、
悪への忍耐ぶりを試みるために。
彼を不名誉な死に追いやろう。
彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」

 

 (註)彼が神の子なら、助けてもらえる……詩編229節、マタイ273944節参照。イエスは荒れ野で、また十字架上でこのような誘惑を受けた。

 (註)不名誉な死……元来は「不格好なし」という意味。フランシスコ会訳では「恥かしい死」となっている。

 

 

 

2朗読          ヤコブの手紙

316節~43節 )

「妬み深く利己的」(314節)な地上の知恵と対比して、

ヤコブは、信仰によって神から賜物として与えられた知恵について述べる。

 

 

使徒ヤコブの手紙

 〔愛する皆さん、〕ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあ〔リます。〕上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。

(註)義の実……イザヤ3217節によれば、正義のもたらす実は平和と信頼である。

(註)平和を実現する人……マタイ59節参照。

(註)人を殺します……兄弟に腹を立てることを殺人と同等とみなすマタイ521節~22節が前提に考えられよう。(Ⅰヨハネ315節も参照)

(註)得られないのは、願い求めないからで……マタイ77節「求めなさい。そうすれば与えられる」が背景にあるようである。

 

 

 

福音朗読         マルコによる福音

93037節 )

マルコ831節に続き、イエスは再び自分の死と復活を予告する。

受難予告のたびに、弟子たちの無理解な姿が示され、

イエスはその弟子たちに十字架の道の意味を解き明かしていく。

 

 

マルコによる福音

 〔そのとき、イエスと弟子たちは〕ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 

(註)一番先になりたいものは……マルコ104344節参照。

(註)子供……子供は無力で弱い立場に置かれた人々の典型であろう。

(註)わたしの名のために……本節の並行個所マタイ1835節、ルカ948節参照。

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015 920より)

2015年9月 9日 (水)

9月13日の「聖書と典礼」

9月13日『年間第24主日』

( マルコによる福音831節より )

人の子は必ず多くの苦しみを受け……

 

 

1朗読         イザヤの預言

( 50章59a節 )

いわゆる「主の僕の歌」の第3の歌。苦難の中で神の助けに信頼する僕(わたし)は預言者個人であると同時に、捕囚の苦しみの中にあるイスラエルの民、

さらにイエスの受難の姿を思わせる。

 

イザヤの預言

主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
わたしの正しさを認める方は近くいます。
誰がわたしと共に争ってくれるのか
われわれは共に立とう。
誰がわたしを訴えるのか
わたしに向かって来るがよい。
見よ、主なる神が助けてくださる。
誰がわたしを罪に定めえよう。

 

(註)耳を開かれた……ここで「わたし」は神の言葉を聞き、それを人々に告げる預言者のように描かれている。

(註)硬い石のように……あざけりに対してのひるまない態度を表すことば。(エゼキエル書38節、9節参照。

 

 

 

第二朗読         ヤコブの手紙

( 2章14~18節 )

マルコによる福音書の前半で、病人をいやし、罪びとにゆるしをもたらし、

貧しい人に神の国の福音を告げ知らせたイエスの活動を身近に見てきたペトロが、イエスはメシア(キリスト)であると告白する。

*  

使徒ヤコブの手紙

* わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

*  

(註)行い……パウロは人が行いではなく信仰によって義とされると述べている(ローマの信徒への手紙328節、ガラテヤに信徒への手紙216節、エフェソの信徒への手紙28節など)が、パウロが言う「行い」は律法の実行のことであり、ヤコブがここで語っているのは、信仰の実践としての愛のことである。

 

 

 

福音朗読         マルコによる福音

( 8章2735節 )

マルコ福音書の前半で、病人をいやし、罪びとにゆるしをもたらし、

貧しい人に神の国の福音を告げ知らせたイエスの活動を身近に見てきた

ペトロが、イエスはメシア(キリスト)であると告白する。

                             

マルコによる福音

 〔そのとき、〕イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

 

(註)エリヤ……紀元前9世紀の北イスラエル王国の有名な預言者。神の裁きの日が来る前に再来すると考えられていた。

(註)誰にも話さないように……この福音書の中でイエスは自分の受難と復活について語り始め、自分が「苦しむメシア」であることを示す。このことが理解されなければ、イエスがメシアであることの意味は誤解されてしまうのである。

(註)サタン……新約聖書ではサタンは普通、悪魔を意味するが、ここでは「神の計画に敵対するもの」「誘惑するもの」という意味でペトロに向かって言われている。

 

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2015 913より)

2015年9月 5日 (土)

9月 6日の「聖書と典礼」

9月 6日『年間第23主日』

神は来て、あなたたちを救われる

( イザヤ書354節より )

 

 

1朗読         イザヤの預言

(イザヤ書3547a節)

イザヤは紀元前8世紀のユダ王国の預言者であるが、イザヤ書にはイザヤ書には後の時代の預言も含まれている。イザヤ書第1部(139章)の預言を締めくくるきょうの箇所も、バビロン捕囚の時代(紀元前6世紀)にユダの回復を告げた預言であったと考えられる。

 

イザヤの預言

心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」

そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
そのとき
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり

乾いた地は水の湧くところとなる。

 (註)心おののく人々……捕虜となって外国で苦しめられていた民のことを指す。

 (註)見えない人の目が開き……これらのことはメシアの到来のしるしと考えられるようになった。イエスによって実現することになる。(今日の福音やマタイによる福音115節など参照)

 

 

2朗読         ヤコブの手紙

215節 )

この手紙の著者は、エルサレム教会の指導者であった

主の兄弟ヤコブだと言われる。

教会の指導者として、ヤコブは非常に具体的で実践的な教えを述べる。

 

わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。

(註)貧しい人たちを……この個所の考えは、イエスのことば「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカによる福音620節)を思い起こさせる。

 

 

福音朗読        マルコによる福音

73137節 )

ティルス地方で、シリア・フェニキアの女の娘をいやした後、

イエスは再びガリラヤ地方に戻ってくる。

 

マルコによる福音

〔そのとき、〕イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

(註)ティルス地方を去り……ティルス、シドンはガリラヤよりさらに北方の地中海沿岸の町。デカポリス地方はガリラヤ湖の東岸にあたる。いずれも異邦人の地域。

(註)手を置いて……いやしの動作。

(註)深く息をつき……ローマの信徒への手紙82223節では「うめく」と訳されることば。病人の苦しみと一つになったようなイエスの姿が見られる。

(註)耳の聞こえない人を……今日の第1朗読イザヤ書とその注参照。

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」20159 6より)

 

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