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2015年10月31日 (土)

11月 1日の「聖書と典礼」

11月 1日『諸 聖 人』

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。

( マタイによる福音 512a

 

 

1朗読        ヨハネの黙示録

724節、914節 )

ヨハネの黙示録は1世紀末、迫害化にあるキリスト者を励ますために書かれた。

ヨハネは幻のうちにこれから起ころうとしていることを示されるが、

ここでは神の怒りが下る前の、地上での神の民への保護(24節)と

天井での殉教者たちの栄光(9~14節)を見る。

 

 

ヨハネの黙示

わたし〔ヨハネ〕はまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。
 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。
 「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、
 小羊とのものである。」
また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。
 「アーメン。
 賛美、栄光、知恵、感謝、
 誉れ、力、威力が、
 世々限りなくわたしたちの神にありますように、
 アーメン。」
 すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」

 

(註)神の刻印……それを押された人が神のものであることを示す印。

(註)四人の天使……この4人の天使は大地の四隅の立ち、神の怒りを地上にもたらすものと考えられている。

(註)十四万四千人……十二部族からそれぞれ一万二千人ということだが、象徴的な数字で無数の神の民を表している。

(註)白い衣……勝利のしるしであり、殉教者の栄光を表す。

(註)玉座の前と小羊の前……神とキリストの前、すなわち、天を指している。

 

 

 

2朗読              ヨハネの手紙一

313節 )

反キリストが現れる中で御子の内にとどまる人々の大きな希望が示される。

 

 

使徒ヨハネの手紙

* 〔愛する皆さん、〕御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

(註)世……キリストをうけいれない世のこと。

(註)御子が現れるとき……別訳では「あの方が現れるとき、わたしたちは、あの方に似たものとなることを……」(フランシスコ会訳2011年版)

 

 

 

福音朗読             マタイによる福音

( 5章1~12a節 )

山上の説教(マタイによる福音5章~7章)のはじめの部分。

ここで語られる人々の姿はイエス御自身の姿を思わせる。

聖人とはキリストの証人のことなのである。

 

 

                             

マタイによる福音

  〔そのとき、〕イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
 「心の貧しい人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
 その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
 その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、
 その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、
 その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、
 その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
 その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

 

(註)心の貧しい人々……直訳では「霊において貧しい人々」(ルカによる福音6章20節参照)。

 

(註)柔和な人々は……詩編37章11節参照。

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」201511 1より)

2015年10月24日 (土)

10月25日の「聖書と典礼」

10月25日『年間第30主日』

「わたしは、目の見えない人も、歩けない人も、慰めながら導く」

( 第1朗読主題句 エレミヤ書31 89節より )

 

 

 

1朗読               エレミヤ書

31 79節)

紀元前10世紀にイスラエルは南北2つの王国に分裂したが、北イスラエルは紀元前720年、アッシリア帝国のよって滅ぼされてしまった。エレミヤ(南ユダの預言者、紀元前600年前後に活動)はこの個所で北イスラエルの回復を預言する。

 

 

エレミヤの預言

主はこう言われる。
ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。
諸国民の頭のために叫びをあげよ。
声を響かせ、賛美せよ。
そして言え。
「主よ、あなたの民をお救いください
イスラエルの残りの者を。」
見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し
地の果てから呼び集める。
その中には目の見えない人も、歩けない人も
身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。
彼らは大いなる会衆となって帰って来る。
彼らは泣きながら帰って来る。
わたしは彼らを慰めながら導き
流れに沿って行かせる。
彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。
わたしはイスラエルの父となり
エフライムはわたしの長子となる。

 

(註)ヤコブ……北イスラエルと南ユダの共通の父祖。ここでは全イスラエルの意味。

(註)イスラエルの残りの者……この「イスラエル」は北イスラエルのこと。アッシリアの滅ぼされた北王国の人々はアッシリアに強制連行されたが、完全に滅んでしまったわけではない。この「残りの者」たちが再建される民の核となる。

(註)北の国……アッシリアの地

(註)エフライム……ヨセフの子の名前で、イスラエルの12部族の一つ。北王国の中心部族となり、北王国の別名にもなった。ここでは「イスラエル」と同義                              

 

 

 

2朗読             ヘブライ人への手紙

旧約の大祭司と対比しながら、新約の大祭司イエス・キリストについて語る。

516節 )

 

 

ヘブライ人への手紙

 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。
 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、
 「あなたはわたしの子
 わたしは今日、あなたを産んだ」
と言われた方が、それをお与えになったのです。
また、神は他の個所で、
 「あなたこそ永遠に
 メルキゼデクと同じような祭司である」
と言われています。

 

(註)自分自身のためにも……罪を犯した祭司は、自分の罪のためにいけにえをささげた(レビ記4312節)が、イエス・キリストは罪がない(ヘブライ人への手紙415節)。

(註)アロン……モーセの兄で、最初の大祭司。

(註)あなたはわたしの子……詩編27節の引用。

(註)あなたこそ永遠に……詩編1104節の引用。この詩編は王であり、祭司であるメシアについて歌う。

(註)メルキデゼク……創世記141720節でアブラム(アブラハム)を祝福したサレム「エルサレム」の王であり、「いと高き神の祭司」とも呼ばれている。

 

 

 

福音朗読              マルコによる福音

イエスは十字架への道を歩み、弟子たちに従うよう招くが、

ここではいやされた盲人がイエスの道に従っていく。

104652節 )

 

 

マルコによる福音

イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 

(註)エリコ……ヨルダン川下流の町。エルサレムまで20キロメートル程の距離にある。

(註)ダビデの子……イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれる理想的な王(メシア)はダビデ王の子孫から出ると考えられていた。バルティマイは人々がイエスのことをそう噂しているのを聞いていたのであろう。

(註)先生……原語はアラム語で「ラボニ」(ヨハネによる福音2016節参照)。「ラビ(先生)よりも強い意味で、「わたしの主」というような意味を持つとも言われる。

(註)なお道を進まれる……直訳では、「その道の中で」。

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」20151025より)

2015年10月17日 (土)

10月18日の「聖書と典礼」

10月18日『年間第29主日』

人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た。

(福音朗読主題句 マルコによる福音1045節より)

 

 

 

1朗読          イザヤの預言

531011節 )

イザヤ書の第2の部分(4055章)には「主の僕の歌」と呼ばれるものが

四つある。この個所は第4の歌の一説。

 

 

     イザヤの預言

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

 

* 彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った

(註)この人……次節の「わたしの僕」と同一人物。この苦しむ僕は預言者自    身とも言われるが、イエスの受難と栄光の姿を思わせる。

(註)償いの献げもの……元は、「罪、とが」を意味する言葉で、「とがのための献げ者」をも意味した。律法によれば、無傷の雄羊がささげられることになっていた(レビ記51426節参照)。

 

 

 

2朗読             ヘブライ人への手紙

41416節 )

ヘブライ書はイエスを「大祭司」と呼ぶ。このことばの中に、神への完全な従順と人々との連帯によって、神と人とを一つに結んだイエスの使命が示されている。この大祭司イエスによって、わたしたちが神に近づく道が開かれたということが、本書の中心のテーマである。

 

 

ヘブライ人への手紙

〔皆さん、〕わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

 

(註)同情……本来の意味は、「同じ目にあうこと、苦難を共にすること」。

(註)恵みの座……恵み深い神ご自身の象徴。

 

 

 

福音朗読            マルコによる福音

(10章3545節、 または 10章4245節)

3回目の受難予告に続く個所。

十字架の道に無理解な弟子たちに対して、

イエスはご自分の受難の意味を解き明かされる。

 

 

マルコによる福音

〔そのとき、〕ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、
イエスは〔十二人〕を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 

(註)栄光をお受けになるとき……この二人は、イエスがエルサレムに行き、この世の王となることを期待している。「右」「左」はその時の与えられる特別な地位のことである。

 (註)杯を飲み……ここでは苦しみを受けることを意味する。 洗礼を受ける ここでの「洗礼」は、杯と同じく、苦しみや死を暗示する。

 (註)身代金……元来は、奴隷を開放してもらうために支払う代金を意味する。人の罪の奴隷状態から解放する神のわざを指すようになった。

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」20151018より)

2015年10月10日 (土)

10月11日の「聖書と典礼」

10月11日『年間第28主日』

人間にできることではないが、神にはできる

(マルコによる福音書1027節より)

 

 

 

 第1朗読          知恵の書

  7 711節 )

「知恵の書」は紀元前1世紀、エジプトのアレキサンドリアでギリシャ語で話すユダヤ人によって書かれたと考えられているが、この個所はソロモン王(ダビデ王の子、紀元前10世紀)が語る形式をとっている。若くして王になったソロモンは、主から「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたとき、長寿や富や敵の命を求めず、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。(列王記3415節参照)

 

 

知恵の書

わたしは祈った。
すると悟りが与えられ、
願うと、知恵の霊が訪れた。
わたしは知恵を王笏や王座よりも尊び、
知恵に比べれば、富も無に等しいと思った。
どんな宝石も知恵にまさるとは思わなかった。
知恵の前では金も砂粒にすぎず、
知恵と比べれば銀も泥に等しい。
わたしは健康や容姿の美しさ以上に知恵を愛し、
光よりも知恵を選んだ。
知恵の輝きは消えることがないからだ。
知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた。
知恵の手の中には量り難い富がある。

 

 

 

2朗読            ヘブライ人への手紙

41213節 )

荒れ野で神に反抗し、心をかたくなにしたイスラエルの民のように

不従順になってはならない、と教えた後、その根拠が語られる個所。

 

 

ヘブライ人への手紙

神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができ〔ます。〕更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

(註)精神と霊……両方とも人間を構成する要素の一つと考えられている。ここでは「関節と骨髄」同様、分けがたい者のたとえであろう。

(註)自分のことを申し述べ……総決算をすること(フランシスコ会訳参照)。

 

 

 

福音朗読             マルコによる福音

101730節、または、101727節)

エルサレムへの旅、すなわち十字架に向かう道の途上で、

イエスはご自分とともに歩むことを人々に求める。

 

 

マルコによる福音

 〔そのとき、〕イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」

(註)善い……教えを乞おうとする真摯な態度から出た言葉だが、次節でイエスがこの言葉を退けているのは、神ご自身とその掟に心を向けさせるためであろう。

(註)殺すな……出エジプト記201217節参照。十戒の後半、人間関係についての部分の引用である。

(註)慈しんで……原語は「アガパオー」(愛する)

(註)天に富を積む……マタイによる福音620節、ルカによる福音1233節参照。

(註)驚いた……イエスのことばは、財産を神の祝福のしるしと考える当時の常識を覆すものであった。

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」20151011号より)

 

2015年10月 3日 (土)

10月 4日の「聖書と典礼」

10月 4日『年間第27主日』

「人が一人でいるのは良くない。彼に合う助けるものを造ろう」

(創世記 218節より)

 

 

 

1朗読           創 世 記

21824節 )

神は人を造り、エデンの園に置き、

人が生きるのに必要なものをすべて備えてくださった。

その最後に、共に生き、助けあう相手が与えられる。

 

 

 

創 世 記

主なる神は言われた。
 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
  主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
 「ついに、これこそ
 わたしの骨の骨、 わたしの肉の肉
 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 

(註)助けるもの……                              単なる助手のようなものではなく、対等なパートナーを意味する。

(註)あばら骨……あばら骨から造られたということは、男女が対等であり、親密で、互いに求め合うものであることを表している。

(註)骨の骨 肉の肉……骨と肉は非常に親密な関係(特に血縁関係)を表す言い方。

(註)イシャー、イシュ……ヘブライ語では女と男のことをこのように言う。

(註)一体……直訳すれば、「一つの肉」。

 

 

 

第二朗読             ヘブライ人への手紙

( 2章9~11節 )

今週からヘブライ書が読まれていく。

今日の箇所は、キリストによってもたらされた救いの素晴らしさを語る。

 

 

ヘブライ人への手紙

〔皆さん、わたしたちは、〕「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。

事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥と〔されないのです。〕

 

(註)天使たちよりも……次の「栄光と栄誉の……」と共に詩編86節ギリシャ語訳からの引用。この詩編は本来、人間一般について語られているものだが、ここではイエスにあてはめられている。

(註)創始者……原語の「アルケゴス」には「導き手」の意味もある。

(註)聖なる者となさる方……イエスのこと。次の「聖なる者とされる人たち」はイエスによる救いを受ける人々。

 

 

 

福音朗読         マルコによる福音

10216節 )

十字架の向かう歩みの中で、イエスは、

神が本来何を望んでおられるのかを明らかにしていく。

 

 

マルコによる福音

  〔そのとき、〕ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 

(註)離縁状を書いて……申命記241節参照。申命記では「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」という条件も付けられている。モーセの律法の意図は、夫が妻を勝手に追い出すことを制限することにあった。

(註)神は人を男と女とに……創世記127節参照。

(註)人は父母を離れて・・・一体となる……創世記224節(第1朗読)の引用。

(註)子供……当時の社会の中では無力な者の代表であった。

(註)神の国……神の国は、人間の功績に対する報いではなく、貧しく無力な者に無償で注がれる神の愛そのものである。それゆえ、人には父()に対する子供としての信頼こそが求められる。

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」201510 4より)

 

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