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2015年12月25日 (金)

12月27日の「聖書と典礼」

12月27日『聖家族』

両親はイエスが学者たちの真ん中におられるのを見つけた。

( 福音主題句 ルカによる福音246節より )

 

 

第一朗読 サムエル記(上)

(1章20-22節、24-28節)

紀元前11世紀の出来事。子供がなかったために苦しんでいた

ハンナの願いが聞き入れられ、男の子が生まれた。

                             

 

サムエル記

 〔エルカナの妻〕ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。
 さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」
 乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った。この子は幼子にすぎなかったが、人々は雄牛を屠り、その子を〔祭司〕エリのもとに連れて行った。ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」
 彼らはそこで主を礼拝した。

(註)サムエル……後に偉大な預言者となり、サウルやダビデに油を注ぎ、王とした。

(註)シロ……王国成立以前、長い間、聖所が置かれたエフライムの町。

(註)エリ……白の聖所に仕えていた祭司。

 

 

 

第二朗読       (一)ヨハネの手紙

( 3章1-2節、21-24節 )

この手紙は「神は愛である」と語り、神の子供として、

その愛のうちに生きる道をしめす。

 

使徒ヨハネの手紙

 〔愛する皆さん、〕御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださったによって分かります。

(註)御子が現れるとき――……原文に「御子」ということばはない。ここで「御子」と訳されている部分は、「神」ととることができる。

(註)互いに愛し合うこと……ヨハネによる福音1334節、1512節参照。

(註)"霊"……聖霊のこと。

 

 

 

福音朗読         ルカ による福音

 ( 2章41-52節 )

少年時代のイエスのエピソードであるが、

後のイエスの宣教活動、受難と復活が暗示されているような個所。

 

 

ルカによる福音

 〔イエスの〕両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

 

(註)過越祭……エジプトからの脱出を毎年記念する祭。イエスが十字架にかけられたのもこの時である。

(註)三日の後……復活に関して使われる言葉(マルコによる福音831節、931節など参照)。

(註)自分の父の家……具体的には神殿を指すが、同時にこのイエスが語る最初の箇所で、自分が父である神のもとにいることをあかししている。なお、「当たり前」とは、神の計画によって定められていることを意味する。

(註)心に納めていた……ルカによる福音219節参照。

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」20151227より)

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