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2016年1月29日 (金)

1月31日の「聖書と典礼」

1月31日『年間第4主日』

「この人はヨセフの子ではないか。」

(ルカによる福音 422節より)

 

第一朗読          エレミヤ書 

(1章45節、1719節)

紀元前76世紀にユダ王国で活動した預言者エレミヤの召命を語る個所。バビロン捕囚に向かう時代に、エレミヤはユダの罪とその結果である王国の滅亡を預言したため、迫害を受けた。このエレミヤの苦しみはイエスの受難をも連想させる。

                             エレミヤの預言

 〔ヨシヤ王の時代に〕
4主の言葉がわたしに臨んだ。
5「わたしはあなたを母の胎内に造る前から
あなたを知っていた。
母の胎から生まれる前に
わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。

 

17あなたは腰に帯を締め
立って、彼らに語れ
わたしが命じることをすべて。
彼らの前におののくな
わたし自身があなたを
彼らの前でおののかせることがないように。
18わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて
堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として
ユダの王やその高官たち
その祭司や国の民に立ち向かわせる。
19彼らはあなたに戦いを挑むが
勝つことはできない。
わたしがあなたと共にいて、救い出す。」

(註)5母の胎内に造る前から・・・・・・時間的な順序よりも、神の確かな計画であることを表す。(ガラテアの信徒への手紙115節参照)。

(註)聖別・・・・・・その人を取り分けて神のものとすること。

(註)17腰に帯を締め・・・・・・武装を意味する。ここでは神のことばを身に備えること。

 

第二朗読      一コリントの信徒への手紙 

(12章31〜13章13節、 または 13章413節)

 コリントの教会では聖霊の働きとしてさまざまな「賜物(カリスマ)」があり、それぞれの人が自分の受けた賜物を強調することによる混乱も見られた。パウロは教会が秩序正しく一つになることを願い、最高の道をここに示す。

使徒パウロのコリントの教会への手紙

 〔皆さん、〕
1231もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
131たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
134愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。11幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

(註)131異言・・・・・・原語は元々「舌」を意味することばで「言葉」の意味にもなる。ここでは神を賛美する不思議な言葉のこと(一コリントの信徒への手紙1210節、30節、および14章参照)。コリントの教会で重んじられていた賜物であった。

(註)2山を動かすほどの・・・・・・マタイによる福音1720節、2121節、マルコによる福音1123節参照。

(註)11幼子のように・・・・・・ここでは「無知な者として」という意味で使われている。

(註)12鏡・・・・・・現在の鏡とは違い、古代の鏡は金属を磨いたものだったので、姿がぼんやりとしか映らなかった。

(註)そのとき・・・・・・神との決定的な出会いの時。

(註)顔と顔とを合わせて・・・・・・出エジプト記3311節、民数記128節のモーセについての描写を思わせる。神との直接的で親密な交わりを表す。

 

福音朗読         ルカによる福音 

(4章21節30節)

先週の箇所に続く、故郷のナザレの会堂での宣教開始の日の出来事。しかし、ここで起こることはイエスのこれからの歩み全体を暗示するような出来事であるともいえる。

ルカによる福音

〔そのとき、ナザレの会堂で預言者イザヤの書を読まれた〕

21イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。 

(註)25エリヤ・・・・・・紀元前9世紀の北イスラエルの預言者。この飢饉の話は列王記上17章にある。「シドン」「サレプタ」はイスラエルの北方の地中海沿岸に位置する。

(註)27エリシャ・・・・・・エリヤの弟子で後継者であった預言者。アラム人の王の軍司令官ナアマンはエリシャに言われたとおりヨルダン川で身を洗っていやされた。(列王記下5章参照)。

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2016 131より)

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