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2016年3月31日 (木)

4月 3日の「聖書と典礼」

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

信じないものではなく、信じるものになりなさい。

(ヨハネによる福音20章27節より)

 

 

第一朗読      使徒言行録 

(5章1216節)

                              使徒言行録2章42-47節(A年)、4章32-35節(B年)に続いて、生まれたばかりの教会の様子を伝える個所。ここでは特にペトロの活躍が目立っている。

 使徒たちの宣教

12使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、13ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。14そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。15人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。16また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

()12ソロモンの回廊……神殿の異邦人の庭の東側にある回廊。

()13他のもの……本来は、使徒たちに反感を抱いていた長老たちのことを意味していたようである(41-21節参照)

 

第二朗読       黙示録

(1章911節a、1213節、1719節)

 C年の復活節主日の第2朗読ではヨハネの黙示録が読まれていく。黙示録は復活して天に上げられたキリストへの信頼と救いの希望を示し、迫害と苦難の中にいる信徒たちを励ます書である  

ヨハネの黙示

9わたし〔ヨハネ〕は、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっている〔者〕である。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。10ある主の日のこと、わたしはに満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。11aその声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、〔アジア州にある〕七つの教会に送れ。」
12わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、13燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。
17わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、18また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。19さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。」

() 9パトモス……エーゲ海の南にある岩地の小島。

()10主の日……今の日曜日のこと(福音朗読の注参照)

()11 七つの教会……本書には小アジアの七つの教会名が挙げられているが、「七」という数は完全さを表す数であり、全教会を指すとも考えられる。

()12七つの金の燭台……七つの教会を表すシンボル。

()13人の子のような方……イエス・キリストを指す(ダニエル書713節参照)。その衣の描写は、イエスを栄光に満ちた裁き主として示している。

 

福音朗読     ヨハネによる福音

(20章1931節)

 ヨハネ福音書で、復活したイエスが最初に弟子たちに姿を表す個所。復活の日(つまりペトロたちが空の墓を見た日)の夕方の出来事と、それから1週間目の出来事。

 ヨハネによる福音

19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

()19週の初めの日……安息日の翌日で、この日にイエスは復活した。このため、キリスト教にとってこの日は特別な日(主の日)となった。

()19平和があるように……ヨハネ1427節で「平和を与える」と約束されていた。

()20手とわき腹……十字架に釘づけられた手の傷、槍で貫かれたわき腹。

()22息を吹きかけて……聖霊が与えられることを表す動作。創世記27節参照。

()23だれの罪でも……マタイによる福音1619節、1818節参照。

()24ディディモ……ギリシャ語で「双子」の意味。「トマス」はアラム語でやはり「双子」を意味する。

()28わたしの主、わたしの神よ……詩編3523節参照。

()30-31……本来のヨハネ福音書の結びのことばと考えられる(21章は後で書きくわえられた)

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2016 4 3より)

2016年3月27日 (日)

3月27日の「聖書と典礼」

327日(日)復活の主日日中のミサ

                             

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、

マグダラのマリアは墓に行った。

(ヨハネによる福音201)

 

第一朗読          使徒言行録

(10章34節a、3743節)

復活節の主日の第1朗読はいつも「使徒言行録」が読まれ、復活した主に力づけられ、聖霊に導かれた初代教会の姿が思い起こされる。毎年読まれる今日の箇所は、ローマ軍の百人隊長であったコルネリウスから招待を受けたペトロが、イエス・キリストについて証言する個所。

 

 

使徒たちの宣教

34  a〔その日、〕ペトロは口を開きこう言った。37「あなたがたは〔このことを〕ご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

()38聖霊と力に~・・・・・・ルカによる福音418節(イザヤ書611節)参照。

()41ご一緒に食事をした・・・・・・イエスが確かに生きていることを表す印。ルカによる福音書2443節、使徒言行録14節参照。

 

第二朗読     (一)コリントの信徒への手紙

(5章6節b-8節)

 パウロは不道徳な人との交際を避けるように命じて、子のたとえを語る。

使徒パウロのコリントの教会への手紙

 6b〔皆さん、〕わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。7いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。8だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

() 6パン種・・・・・・パン種はパンをふくらませるためになくてはならないものであるが、同時に腐敗のもとでもある。福音書の中でもパンダネのたとえは、良い意味でも(マタイによる福音書1333)悪い意味でも(マタイによる福音書815)用いられている。ここでは悪が広がっていくことを意味する。

() 7過ぎ越しの子羊・・・・・・原語は「パスカ」で、「過越」「過越祭」の意味もある。過越祭は8日間パン種の入っていないパンを食べる除酵祭に初日であった。

 

福音朗読         ヨハネによる福音

(20章19節)

 イエスが十字架で死んでから3日目の早朝の出来事。

ヨハネによる福音

 1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

() 1週の初めの日・・・・・・安息日の翌日で今の日曜日にあたる。

() 墓・・・・・・墓は岩を掘った横穴で、その入り口は転がる石でふさぎ、死者の世界との境界を閉ざした。

() 2愛しておられたもう一人の弟子・・・・・・ゼベダイの子ヨハネ。

() 5亜麻布・・・・・・イエスの遺体を包んでいた布(ヨハネによる福音1940節参照)

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2016327より)

2016年3月25日 (金)

3月26日の晩の「聖書と典礼」

327日(日)復活の主日「復活の聖なる徹夜祭」

                             

 

第一朗読       創世記

(1章1節、2631節a 短い形)

創世記

初めに、神は天地を創造された。
神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

 

第一朗読       創世記 

(1章1節~2章2節 長い形)

創世記

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
神は言われた。
「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」
そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。
神は言われた。
「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」
そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。
神は言われた。
「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神は言われた。
「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」
そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。

 

第二朗読       創世記 

(22章118節 または 22章1-2節、

9節a、10-13節、15-18節)

創世記

〔その日、〕神はアブラハムを試された。
神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。
「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。
「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
アブラハムは答えた。
「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、
息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、
手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
アブラハムはその場所を〔主は、備えてくださる(イルエ)〕と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。
「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 

第三朗読      出エジプト

(14章15節〜15章1節a)

出エジプト記

 〔その日、追い迫るエジプト軍を見て、イスラエルの人々が非常に恐れたとき、〕主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
 主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。

 

第四朗読       イザヤ書

(54章514節)

イザヤの預言

〔エルサレムよ〕
あなたの造り主があなたの夫となられる。
その御名は万軍の主。
あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神
全地の神と呼ばれる方。
捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように
主はあなたを呼ばれる。
若いときの妻を見放せようかと
あなたの神は言われる。
わずかの間、わたしはあなたを捨てたが
深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。
ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが
とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと
あなたを贖う主は言われる。
これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。
再び地上にノアの洪水を起こすことはないと
あのとき誓い
今またわたしは誓う
再びあなたを怒り、責めることはない、と。
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
あなたを憐れむ主は言われる。

 

苦しめられ、嵐にもてあそばれ
慰める者もない都よ
見よ、わたしはアンチモンを使って
あなたの石を積む。
サファイアであなたの基を固め
赤めのうであなたの塔を
エメラルドであなたの門を飾り
地境に沿って美しい石を連ねる。
あなたの子らは皆、主について教えを受け
あなたの子らには平和が豊かにある。
あなたは恵みの業によって堅く立てられる。
虐げる者から遠く離れよ
もはや恐れることはない。
破壊する者から遠く離れよ
もはやそれがあなたに近づくことはない。

 

第五朗読       イザヤ

(55章111節)

 イザヤの預言

〔主は言われる。〕
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
銀を持たない者も来るがよい。
穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求め
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い
飢えを満たさぬもののために労するのか。
わたしに聞き従えば
良いものを食べることができる。
あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。
聞き従って、魂に命を得よ。
わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。
ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
見よ
かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし
諸国民の指導者、統治者とした。
今、あなたは知らなかった国に呼びかける。
あなたを知らなかった国は
あなたのもとに馳せ参じるであろう。
あなたの神である主
あなたに輝きを与えられる
イスラエルの聖なる神のゆえに。

 

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば
豊かに赦してくださる。

 

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。
雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。

 

第六朗読       バルク書

(3章915節、32節〜4章4節)

 バルクの預言

聞け、イスラエルよ、命をもたらす戒めを。
耳を傾けて、悟りを得よ。
イスラエルよ、なぜなのか。
なぜお前は敵の地におり、
異国の地で年を重ね、
死者と汚れを共にし、
陰府に下る者の中に数えられたのか。
お前は知恵の泉を見捨てた。
神の定めた道を歩んでいたなら、
永遠に平和のうちに暮らしていたであろう。
学べ、どこに悟りがあるかを。
またどこに力があり、どこに知識があるかを。
そして知れ、どこに長寿と命があり、
どこに目の輝きと平和があるかを。

 

いったいだれが
知恵の在りかを見いだしただろうか。
だれがその宝庫に入っただろうか。

 

すべてを知る方だけが知恵を知り、
御自分の力でそれを悟り、見いだされたのだ。
その方はあらゆる時代に備えて全地を整え、
それを四足の獣で満たした。
その方が光を放つと、光は走り、
ひと声命ずると、光はおののいて従う。
星はおのおの持ち場で喜びにあふれて輝き、
その方が命ずると、「ここにいます」と答え、
喜々として、自分の造り主のために光を放つ。
この方こそわたしたちの神であり、
他に比ぶべきものはない。
この方は知識の道をすべて見いだし、
それを僕ヤコブと愛するイスラエルに与えた。
その後、知恵は地上に現れ、人々の中に住んだ。

 

知恵は神の命令の書、永遠に続く律法である。
これを保つ者は皆生き、これを捨てる者は死ぬ。
ヤコブよ、立ち帰ってこれをつかみ、
知恵の光に目を注ぎ、その輝きに向かって歩め。
あなたの栄光をほかの者に、
あなたの特権を異国の民に渡してはならない。
イスラエルよ、わたしたちは幸いだ。
神の御心に適うことを知っているのだから。

 

第七朗読     エゼキエル書

(36書1617節a、1828節)

 エゼキエルの預言

  主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した。その歩みと行いによって汚した。それゆえ、わたしは憤りを彼らの上に注いだ。彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚したからである。わたしは彼らを国々の中に散らし、諸国に追いやり、その歩みと行いに応じて裁いた。彼らはその行く先の国々に行って、わが聖なる名を汚した。事実、人々は彼らについて、『これは主の民だ、彼らは自分の土地から追われて来たのだ』と言った。そこでわたしは、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ。
 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。」

 

使徒書の朗読  ローマの信徒への手紙

(6章3節11節)

使徒パウロのローマの教会への手紙

 〔皆さん、〕あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 

福音朗読      ルカによる福音

(24章1節12節)

ルカによる福音

 週の初めの日の明け方早く、〔婦人たちは、〕準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 

2016年3月24日()~3月26日()

聖なる過越の3日間
聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」にはじまり、

主の受難と十字架、そして復活を祝う3日間です。


聖木曜日「主の晩さんの夕べのミサ」では、最後の晩さんにおいて主が聖体、ミサ、司祭職を制定なさったことを記念します。この日のミサでは、キリストに倣って足を洗う洗足式と聖体安置式が行われます。
また、聖木曜日には、各司教座聖堂において「聖香油のミサ」が行われ、その中で司祭たちは司教の前で司祭叙階の日の“司祭の約束”を更新します。このミサで、洗礼、堅信、司祭が叙階のときに受ける油、病者の塗油のとき使われる油が祝福されます。
聖金曜日(主の受難)
古来の伝統に従い、聖金曜日と聖土曜日は、ミサは行われません。
聖金曜日には、主の十字架の勝利を賛美する、十字架の礼拝式が行われます。キリストの受難と死が記念されます。
この日は、キリストの受難に倣い
大斎・小斎の日と定められています。
聖土曜日(復活の聖なる徹夜祭)
「復活の聖なる徹夜祭」は、1年の典礼の中で最も盛大で、中心的な祭儀であり、守るべき徹夜とされています。
わたしたちのために苦しみを受け十字架につけられて死に、その死に打ち勝ち復活された主イエス・キリストを
「アレルヤ」と声高らかにたたえることができるように、この3日間を過ごしたいものです。

2016年3月24日 (木)

3月25日の「聖書と典礼」

3月25日『聖金曜日・主の受難』

 

第一朗読      イザヤ書

(52章13節〜53章12節)

イザヤの預言

〔主は言われる。〕
見よ、わたしの僕は栄える。
はるかに高く上げられ、あがめられる。
かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように
彼の姿は損なわれ、人とは見えず
もはや人の子の面影はない。
それほどに、彼は多くの民を驚かせる。
彼を見て、王たちも口を閉ざす。
だれも物語らなかったことを見
一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。

                             

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。

 

第二朗読    ヘブライ人への手紙

(4章1416節、5章79節)

ヘブライ人への手紙

  〔皆さん、〕わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源とな〔ったのです。〕

 

受難の朗読    ヨハネによる福音

(18章1節〜19章42節)

ヨハネによる主イエス・キリストの受難

()✝印:キリスト、C:語り手、S:群衆、A:他の登場人物

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 
 

 
 

〔夕食のあと、〕イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、言われた。

 
 

 
 

「だれを捜しているのか。」

 
 

 
 

彼らは答えた。

 
 

 
 

「ナザレのイエスだ。」

 
 

 
 

イエスは言われた。

 
 

 
 

「わたしである。」

 
 

 
 

イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスは重ねてお尋ねになった。

 
 

 
 

「だれを捜しているのか。」

 
 

 
 

彼らは言った。

 
 

 
 

「ナザレのイエスだ。」

 
 

 
 

すると、イエスは言われた。

 
 

 
 

「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」

 
 

 
 

それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。

 
 

 
 

「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

 
 

 
 

そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
 
シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。

 
 

 
 

「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」

 
 

 
 

ペトロは言った。

 
 

 
 

「違う。」

 
 

 
 

僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
 
大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。

 
 

 
 

「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」

 
 

 
 

イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、イエスを平手で打って言った。

 
 

 
 

「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか。」

 
 

 
 

イエスは答えられた。

 
 

 
 

「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」

 
 

 
 

アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
 
シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々は言った。

 
 

 
 

「お前もあの男の弟子の一人ではないのか。」

 
 

 
 

ペトロは打ち消して、言った。

 
 

 
 

「違う。」

 
 

 
 

大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。

 
 

 
 

「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」

 
 

 
 

ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
 
人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、言った。

 
 

 
 

「どういう罪でこの男を訴えるのか。」

 
 

 
 

彼らは答えて、言った。

 
 

 
 

「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう。」

 
 

 
 

ピラトは言った。

 
 

 
 

「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け。」

 
 

 
 

ユダヤ人たちは言った。

 
 

 
 

「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません。」

 
 

 
 

それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、言った。

 
 

 
 

「お前がユダヤ人の王なのか。」

 
 

 
 

イエスはお答えになった。

 
 

 
 

「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

 
 

 
 

ピラトは言い返した。

 
 

 
 

「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」

 
 

 
 

イエスはお答えになった。

 
 

 
 

「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

 
 

 
 

そこでピラトが言った。

 
 

 
 

「それでは、やはり王なのか。」

 
 

 
 

イエスはお答えになった。

 
 

 
 

「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 
 

 
 

ピラトは言った。

 
 

 
 

「真理とは何か。」

 
 

 
 

ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。

 
 

 
 

「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」

 
 

 
 

すると、彼らは、大声で言い返した。

 
 

 
 

「その男ではない。バラバを。」

 
 

 
 

バラバは強盗であった。
 
そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
 
兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、平手で打って言った。

 
 

 
 

「ユダヤ人の王、万歳。」

 
 

 
 

ピラトはまた出て来て、言った。

 
 

 
 

「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」

 
 

 
 

イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは言った。

 
 

 
 

「見よ、この男だ。」

 
 

 
 

祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると叫んだ。

 
 

 
 

「十字架につけろ。十字架につけろ。」

 
 

 
 

ピラトは言った。

 
 

 
 

「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」

 
 

 
 

ユダヤ人たちは答えた。

 
 

 
 

「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」

 
 

 
 

ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、イエスに言った。

 
 

 
 

「お前はどこから来たのか。」

 
 

 
 

しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。

 
 

 
 

「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」

 
 

 
 

イエスは答えられた。

 
 

 
 

「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」

 
 

 
 

そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。

 
 

 
 

「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」

 
 

 
 

ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに言った。

 
 

 
 

「見よ、あなたたちの王だ。」

 
 

 
 

彼らは叫んだ。

 
 

 
 

「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」

 
 

 
 

ピラトは言った。

 
 

 
 

「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか。」

 
 

 
 

祭司長たちは答えた。

 
 

 
 

「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません。」

 
 

 
 

そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
 
こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちはピラトに言った。

 
 

 
 

「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください。」

 
 

 
 

しかし、ピラトは答えた。

 
 

 
 

「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ。」

 
 

 
 

兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、話し合った。

 
 

 
 

「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう。」

 
 

 
 

それは、
 
「彼らはわたしの服を分け合い、
 
わたしの衣服のことでくじを引いた」
 
という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に言われた。

 
 

 
 

「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」

 
 

 
 

それから弟子に言われた。

 
 

 
 

「見なさい。あなたの母です。」

 
 

 
 

そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
 
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、言われた。

 
 

 
 

「渇く。」

 
 

 
 

こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
 
イエスは、このぶどう酒を受けると、言われた。

 
 

 
 

「成し遂げられた。」

 
 

 
 

〔そして、〕頭を垂れて息を引き取られた。
 
    (頭を下げて、しばらく沈黙のうちに祈る)
 
その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
 
その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。  

 

 

2016年3月24日()~3月26日()

聖なる過越の3日間
聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」にはじまり、

主の受難と十字架、そして復活を祝う3日間です。


聖木曜日「主の晩さんの夕べのミサ」では、最後の晩さんにおいて主が聖体、ミサ、司祭職を制定なさったことを記念します。この日のミサでは、キリストに倣って足を洗う洗足式と聖体安置式が行われます。
また、聖木曜日には、各司教座聖堂において「聖香油のミサ」が行われ、その中で司祭たちは司教の前で司祭叙階の日の“司祭の約束”を更新します。このミサで、洗礼、堅信、司祭が叙階のときに受ける油、病者の塗油のとき使われる油が祝福されます。
聖金曜日(主の受難)
古来の伝統に従い、聖金曜日と聖土曜日は、ミサは行われません。
聖金曜日には、主の十字架の勝利を賛美する、十字架の礼拝式が行われます。キリストの受難と死が記念されます。
この日は、キリストの受難に倣い
大斎・小斎の日と定められています。
聖土曜日(復活の聖なる徹夜祭)
「復活の聖なる徹夜祭」は、1年の典礼の中で最も盛大で、中心的な祭儀であり、守るべき徹夜とされています。
わたしたちのために苦しみを受け十字架につけられて死に、その死に打ち勝ち復活された主イエス・キリストを
「アレルヤ」と声高らかにたたえることができるように、この3日間を過ごしたいものです。

2016年3月23日 (水)

3月24日の「聖書と典礼」

3月24日『聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ』

 

第一朗読          出エジプト記

(12章18節、1114節)

                             出エジプト記

 〔その日、〕エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。
 それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。』」

 

第二朗読     一コリントの信徒への手紙

(11章2326節)

 使徒パウロのコリントの教会への手紙

 〔皆さん、〕わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

 

福音朗読        ヨハネによる福音

(13章115節)

ヨハネによる福音

* 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」

 

2016年3月24日()~3月26日()

聖なる過越の3日間
聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」にはじまり、

主の受難と十字架、そして復活を祝う3日間です。


聖木曜日「主の晩さんの夕べのミサ」では、最後の晩さんにおいて主が聖体、ミサ、司祭職を制定なさったことを記念します。この日のミサでは、キリストに倣って足を洗う洗足式と聖体安置式が行われます。
また、聖木曜日には、各司教座聖堂において「聖香油のミサ」が行われ、その中で司祭たちは司教の前で司祭叙階の日の“司祭の約束”を更新します。このミサで、洗礼、堅信、司祭が叙階のときに受ける油、病者の塗油のとき使われる油が祝福されます。
聖金曜日(主の受難)
古来の伝統に従い、聖金曜日と聖土曜日は、ミサは行われません。
聖金曜日には、主の十字架の勝利を賛美する、十字架の礼拝式が行われます。キリストの受難と死が記念されます。
この日は、キリストの受難に倣い
大斎・小斎の日と定められています。
聖土曜日(復活の聖なる徹夜祭)
「復活の聖なる徹夜祭」は、1年の典礼の中で最も盛大で、中心的な祭儀であり、守るべき徹夜とされています。
わたしたちのために苦しみを受け十字架につけられて死に、その死に打ち勝ち復活された主イエス・キリストを
「アレルヤ」と声高らかにたたえることができるように、この3日間を過ごしたいものです。

2016年3月19日 (土)

神父からのメッセージ

「十字架につけろ」

神戸地区中ブロック

                大久保 武 神父

 四旬節も折り返し地点を過ぎ、復活祭も着実に近づいてきました。一方、復活祭が近づくということは、あの受難の時も近づいてきているということです。復活を知るには、受難と死を通らねばなりません。イエス様も同じ道を歩まれました。それを語るのが受難の主日からの一週間です。

 受難の主日、もしくは聖金曜日の朗読の時、会衆の全員で「十字架につけろ」と言うことになっています。年に一度という機会に、会衆にも割り当てられた箇所が「十字架につけろ」というのは、改めて考えるとあんまりな話だと思います。洗礼を受け、イエス様により頼む生活を歩んでいる私たちが、どうして聖書の朗読とは言え「十字架につけろ」と言わされなければならないのでしょうか。

 私たちは洗礼を受けたとしても、罪への傾きが残っていることは知っています。洗礼によってそれまでの罪を赦されたとしても、罪を犯さなくなるわけではありません。教えや秘跡によって罪の誘惑から守られることは確かですが、それでも私たちはいつ罪に身を委ねてしまうか分からない存在なのです。ならば、どのようにして罪を極力避けることができるでしょうか。

 罪というものは狡猾で、それと分かるような姿で近づいてきたりはしません。いけないことと知りつつも不思議と罪を犯してしまうのは、罪を罪と思わせない魅力を伴わせるからです。正しいことであっても、苦しみは可能な限り取り除きたいものですが、往々にして正しい苦しみから逃れることは、他の誰かが謂れのない傷を負ってしまうことに繋がります。ここに罪の働きがあると思います。

 罪の働きを止めるには、自分がいかに罪に対して弱い存在であるかを知ることであり、受け入れることです。更に忘れてはならないのが、その弱さにも関わらず神様は私たちの全てを肯定し、受け入れて下さっているということです。受難の時、私たちは心のより所を見失いがちです。何とかして目の前の苦しみから逃れなければ、孤独のまま自分の存在が消えてしまうという恐怖にさらされます。それでも神様への信頼を保つとき、たとえ長くなっても苦しみと共に歩むことが可能となるのです。

 「十字架につけろ」と声に出すのは、そんな私たちでも神様は受け入れて下さるという無限のいつくしみを改めて感じるためだと思います。罪への強さを養うために、今年も受難の時を大切に過ごしましょう。

3月20日の「聖書と典礼」

3月20日『受難の主日(枝の主日)

父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。

(ルカによる福音2346節より)

 

入城の福音        ルカによる福音

(19章2840節)

                              エルサレムが間近に迫ったとき、人々の中に神の王国がすぐに来るという期待が高まったが、イエスはそれを戒め(ルカによる福音1911-27節)、エルサレムに入る。

ルカによる福音

28〔そのとき、〕イエスは先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。29そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、30言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」32使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。33ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。34二人は、「主がお入り用なのです」と言った。35そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。36イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
38「主の名によって来られる方、王に、
 祝福があるように。
 天には平和、
 いと高きところには栄光。」
39すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。40イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

(註)30小ろば・・・・・・「だれも乗ったことのない、つながれた小ろば]への言及はマタイによる福音書212節、マルコによる福音書112節とも共通する。これにイエスが乗ることにメシア(救い主である王)の到来が示されると解されている。

(註)34主がお入り用なのです・・・・・・ルカによる福音書はこのことばを再度示し、「主」を強調する。

(註)38主の名によって~・・・・・・詩編11826節の言葉からとられているが、ルカによる福音書はほかの福音書にある「ホサナ」という叫びを省き「王」「平和」「栄光」ということばに加えて、この出来事の意味を明らかにしている。なお、ルカによる福音書214節も参照。

(註)40石が叫びだす・・・・・・人々の叫びは誰も押さえることはできない。つまり神のみ旨であるという意味。

 

第一朗読         イザヤ書

(50章47節)

  イザヤ書の4055章は第2イザヤと呼ばれるが、その中に「主の僕の歌」と呼ばれるものが四つある(421-4節、491-6節、504-9節、5213節~5312)。この個所はその第三のもの。この「僕」は、預言者自身のようでもあり、来るべきメシアのようでもあるが、なによりもイエス・キリスト(特にその受難)の姿を思わせる。

 イザヤの預言

4主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
5主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
6打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
7主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
 

(註)4弟子としての舌を・・・・・・僕の使命は、言葉を通してなされる預言者的なものである。

(註)6打とうとする者には~・・・・・・僕の苦難については第四の歌に詳しい(5213節以下)。

(註)7顔を硬い石のように・・・・・・迫害に屈服しないさまを表す。

 

第二朗読       フィリピの信徒への手紙

(2章611節)

 互いに愛し合い、へりくだることをパウロは訴え、キリストの模範を思い起こさせる。初代教会のキリスト賛歌が引用されていると考えられている。

使徒パウロのフィリピの教会への手紙

6〔イエス・〕キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

(註)6身分・・・・・・この言葉(モルフェー)の本来の意味は「形、姿」だが、外観のみならず内容・実質をも意味する。7節の「身分」も同じ語。これに対して、7節で「姿」と訳された語(スケーマ)は外にあらわれた形、形状を指す。

(註)8十字架の死に至るまで・・・・・・この言葉は、パウロが元の賛歌に加えたものと考えられている。

 

 

* 受難の朗読     ルカによる福音

(23章149節)

 逮捕されたイエスは最高法院で裁かれ、自分をメシアと称して神を冒瀆したとされた。

 ルカによる主イエス・キリストの受難

 <註>印はキリスト(司式司祭)Cは語り手(1朗読者)Sは群衆(数人、あるいは回収一同)Aは他の登場人物(2朗読者)

                                                                                                                                                                                                                                         
 

 
 

〔そのとき、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは〕1立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。2そして、イエスをこう訴え始めた。

 
 

 
 

「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」

 
 

 
 

3そこで、ピラトがイエスに尋問した。

 
 

 
 

「お前がユダヤ人の王なのか。」

 
 

 
 

イエスはお答えになった。

 
 

 
 

「それは、あなたが言っていることです。」

 
 

 
 

4ピラトは祭司長たちと群衆に言った。

 
 

 
 

「わたしはこの男に何の罪も見いだせない。」

 
 

 
 

5しかし彼らは言い張った。

 
 

 
 

「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです。」

 
 

 
 

6これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、7ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。8彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。9それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。10祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。11ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。12この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
 
13ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、 14言った。

 
 

 
 

「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。15ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。16だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

 
 

 
 

18しかし、人々は一斉に叫んだ。

 
 

 
 

「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」

 
 

 
 

19このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。20ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。21しかし人々は叫び続けた。

 
 

 
 

「十字架につけろ、十字架につけろ。」

 
 

 
 

22ピラトは三度目に言った。

 
 

 
 

「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

 
 

 
 

23ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。24そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。25そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
 
26人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。27民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。28イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。

 
 

 
 

「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。
 
むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
 
29人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
 
30そのとき、人々は山に向かっては、
 
『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、
 
丘に向かっては、
 
『我々を覆ってくれ』と言い始める。
 
31『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」

 
 

 
 

32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。34そのとき、イエスは言われた。

 
 

 
 

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 
 

 
 

人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
 
35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。

 
 

 
 

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

 
 

 
 

36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。

 
 

 
 

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

 
 

 
 

38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
 
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。

 
 

 
 

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

 
 

 
 

40すると、もう一人の方がたしなめた。

 
 

 
 

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

 
 

 
 

42そして、言った。

 
 

 
 

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

 
 

 
 

43すると、イエスは言われた。

 
 

 
 

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

 
 

 
 

44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
 
46イエスは大声で叫ばれた。

 
 

 
 

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」

 
 

 
 

こう言って息を引き取られた。
 
     (頭を下げて、しばらく沈黙のうちに祈る)
 
47百人隊長はこの出来事を見て、神を賛美して言った。

 
 

 
 

「本当に、この人は正しい人だった。」

 
 

 
 

48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。  

 

(註) 1ピラト・・・・・・紀元2636年まで、ユダヤ、サマリア、イドマヤの総督として統治した。

(註) 2皇帝に税を納めるのを禁じ・・・・・・ローマ帝国に対する反逆を意味するが、これは偽証である。イエスはそう言わなかった(ルカによる福音書202026節)。

(註) 王たるメシア・・・・・・メシアについては、226671節参照。「王」と言うことによって、ローマ帝国の支配に対する反逆者であることを強調している。

(註) 3あなたが言っている・・・・・・これは、はっきりとした肯定でも否定でもない言い方。

(註) 7ヘロデ・・・・・・ガリラヤの領主、ヘロデ・アンティパスのこと。612節のヘロデの話はルカによる福音書だけが伝えるもの。

(註) 8喜んだ・・・・・・ヘロデがイエスに会いたいと願ったのは興味本位からであろう。

(註)16鞭で懲らしめて・・・・・・今後2度とこのような騒動を起こさないように、という警告の意味がある。

(註)18バラバ・・・・・・「アバの子」という意味で、ユダヤには多い名前。

(註)21十字架・・・・・・ローマの死刑の中でも特に残酷な刑であり、ローマ市民権を持つ者には適用されなかった。植民地の、特にローマに対する反逆者に適用された。見せしめとしての性格を持つ。

(註)22三度目に・・・・・・ルカ福音書はピラトがイエスの無罪を主張したことを強調している。

(註)26シモンというキレネ人・・・・・・マルコによる福音書1521節参照。キレネはギリシアの対岸にある北アフリカの都市。

(註)2831エルサレムの娘たち~・・・・・・ルカによる福音書だけが伝えるイエスのことば。紀元70年に実際に起こるエルサレムの滅亡を預言しているようである。

(註)29子を産めない女~幸いだ・・・・・・子どもがいれば、自分の子どもについての苦しみが増し加わるからである。

(註)30そのとき、人々は~・・・・・・その苦しみが死よりもひどいものであることを示す。ホセア書108節からの表現。

(註)31生の木 枯れた木・・・・・・「生に木」は十字架に向かう罪のないイエスご自身、「枯れた木」は罪びとである普通のユダヤ人たちのことであろう。

(註)33されこうべ・・・・・・アラム語で「ゴルゴタ」。

(註)34服を分け合った・・・・・・詩編2219節参照。

(註)35神からのメシアで、選ばれた者・・・・・・「神からのメシア」はルカによる福音書920節、「選ばれた者」は935節に出る表現。

(註)36酸いぶどう酒・・・・・・気付け薬のようなもので、苦痛を引き延ばすことになる。

(註)38これはユダヤ人の王・・・・・・イエスはローマ帝国に反逆した政治犯として死刑になったことを示している。

(註)4043・・・・・・この部分はルカによる福音書だけが伝える個所。

(註)42御国においでになる・・・・・・別の写本では「王権を持って来られる」となっている。

(註)45神殿の垂れ幕が~・・・・・・イエスの死によって、神と人とを隔てていたものが取り払われることを象徴的に示す。

(註)46父よ、わたしの霊を~・・・・・・詩編316節のことば。詩編では「父よ」ではなく、「まことの神、主よ」となっている。

(註)47百人隊長・・・・・・ローマ軍の百人隊の長。

(註) 正しい人・・・・・・マタイによる福音書、マルコによる福音書では「神の子」と言う。

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2016・ 3・20より)

2016年3月11日 (金)

3月13日の「聖書と典礼」

3月13日『四旬節第5主日』

罪を犯したことのない者が、

まず、この女に石を投げなさい。

(ヨハネによる福音87節より)

 

第一朗読           イザヤ

(43章1621節)

バビロン捕囚で打ちひしがれていた民に向かって、預言者は、神がまったく新しい救いの業を行うことを告げる。

ザヤの預言

16主はこう言われる。
海の中に道を通し
恐るべき水の中に通路を開かれた方
17戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し
彼らを倒して再び立つことを許さず
灯心のように消え去らせた方。
18初めからのことを思い出すな。
昔のことを思いめぐらすな。
19見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
20野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ
わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。

21わたしはこの民をわたしのために造った。
彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。

(註)16-17海の中に・・・・・・ここではエジプト脱出の時に、紅海を渡ったことが思い起こされている。

(註)19荒れ野に道を・・・・・・荒れ野の道は、捕囚から解放された民がエルサレムに戻る道であり、この解放こそ、神のなさる「新しい」業である。

(註)20水・・・・・・砂漠では、水はまさに救いのシンボルである。

 

第二朗読      フィリピの信徒への手紙

(3章814節)

生粋のユダヤ人でありファリサイ派の一員であり、キリスト者を迫害していたパウロがキリストを信じるものになった。このパウロにとって、キリストを信じることはすべてにまさることであった。

使徒パウロのフィリピの教会への手紙

8〔皆さん、わたしは、〕わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、9キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
12わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。13兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

(註)8すべてを失い・・・・・・ユダヤ人、ファリサイ派としての誇りのすべてを失った。

(註)9律法から生じる自分の義・・・・・・これこそ、パウロがファリサイ派だった時に、求めていたものだった。「義」とは、神との正しい関係を意味することばである。

*  

福音朗読         ヨハネによる福音

(8章111節)

                              ヨハネ福音書に後から挿入されたと考えられるこの個所は、「わたしはだれをも裁かない」(815節)というイエスの言葉につながっていく。

ヨハネによる福音

  1〔そのとき、〕イエスはオリーブ山へ行かれた。2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

(註)1オリーブ山・・・・・・エルサレムの東側すぐのところにある小さな山脈。ルカによる福音2137節によれば、エルサレムを訪れたイエスは夜そこで過ごした。

(註)5こういう女は・・・・・・レビ記2010節、申命記2222節参照。律法では、貫通した場合、男女とも死刑になるはずであった。

(註)6訴える口実・・・・・・この時代のユダヤ人は、死刑を行う権限をローマ帝国に奪われていた(ヨハネによる福音1831節参照)。そこで、イエスが石でこの女を撃ち殺せと言えば、ローマ総督に訴えることができ、逆に、死刑に反対すれば、律法を否定したことになってしまう。

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2016・ 3・13より)

2016年3月 3日 (木)

3月 6日の「聖書と典礼」

3月 6日『四旬節第4主日』

神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させられた。

(第2朗読主題句  (二)コリントの信徒への手紙518節より)

 

第一朗読           ヨシュア記

(5章9節a、1012節)

                              モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、40年間の荒れ野での生活の後、モーセの後継者ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、約束の地に入った。

ヨシュア記

9a〔その日、〕主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた。」
10イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。11過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。12彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。

(註)10ギルガル・・・・・・ヨルダン川西岸の町エリコの近く。カナン征服の出発点となった。

(註) その月・・・・・・第1の月(ニサンの月)と言われ、今の34月にあたる。

(註)12マナ・・・・・・荒れ野で神から与えられた食べ物。それが絶えたのは、荒れ野の旅が終わったことを意味する。

 

第二朗読       (二)コリントの信徒への手紙

(5章1721節)

  この手紙は、パウロが去った後にコリントの教会に入ってきた偽使徒に反対して書かれた。パウロは、自分が仕えている「新しい契約」(36節)について述べる。

使徒パウロのコリントの教会への手紙

17〔皆さん、〕キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。18これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。19つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。20ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。21罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

(註)21罪と何のかかわりもない方を・・・・・・イエスは罪を犯さなかったが、罪のために神から離れていた人間とまったく同じようになった。「罪となさいました」は特に十字架の死を指している(ガラテヤの信徒への手紙313節参照)。

 

福音朗読         ルカによる福音

(15章13節、1132節)

  ユダヤ人にとって共に食事をすることは、救いの共同体を表すものだった。イエスは、その行動(罪びととの会食)とたとえ話によって、罪びとの滅びではなく、救いを望まれる神の心をはっきりと示される。

 ルカによる福音

1〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。
11「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

(註)3次のたとえ・・・・・・11節からのたとえ話は、「見失った羊」と「なくした銀貨」のたとえ(4-10節)に続いて語られている。

(註)12財産の分け前・・・・・・父が死んだときに相続する分のこと。(申命記2117節参照)。

(註)15豚の世話・・・・・・豚はユダヤ人にとって汚れた動物。

(註)16イナゴ豆・・・・・・家畜の飼料であるが、貧しい人の食物にもなった。

(註)22良い服 指輪 履物・・・・・・いずれも雇い人ではなく、子として迎え入れるしるし。

(註)29言いつけに背いたことは・・・・・・ファリサイハの態度が暗示されている。

(註) 子山羊一匹すら・・・・・・小牛よりもずっと価値が低い。

(註)30あなたのあの息子・・・・・・兄は自分の弟を兄弟として受け入れることができずにこのように言うが、父親は「お前のあの弟」(32)と言い換えている。

 

 

(オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2016・ 3・ 6より)

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