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2016年9月 2日 (金)

9月 4日の「聖書と典礼」

9 4() 年間第23主日  (C年)

主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。

(第1朗読主題句 知恵の書 913節より)

 

 

 〔「神がくださるのでなければ、知恵を得ることはできない」(821節)と知った人の知恵を求める祈り。本書が書かれたのは紀元前1世紀ごろであるが、知恵を神に願ったソロモン王(紀元前10世紀)の祈りという形で記されている。列王記3515節参照〕

第一朗読           知恵の書

主の御旨を悟りうる者がいるのでしょうか。

(9章1318節)

知恵の書

13「神の計画を知りうる者がいるでしょうか。
主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。

14死すべき人間の考えは浅はかで、
わたしたちの思いは不確かです。

15朽ちるべき体は魂の重荷となり、
地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。

16地上のことでさえかろうじて推し量り、
手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、
まして天上のことをだれが探り出せましょう。

17あなたが知恵をお与えにならなかったなら、
天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、
だれが御旨を知ることができたでしょうか。

18こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、
人はあなたの望まれることを学ぶようになり、
知恵によって救われたのです。」

(註)15地上の幕屋……肉体のこと。

 

 

 〔フィレモンはコロサイの裕福なキリスト者であった。フィレモンのもとから逃れ、パウロに出会ってキリスト者になった逃亡奴隷のオネシモを、元の主人フィレモンのもとに送り返すにあたっての手紙。〕

第二朗読       フィレモンへの手紙

もはや奴隷としてではなく、愛する兄弟として、彼を迎え入れてください。

(9b10節、1217節)

使徒パウロのフィレモンへの手紙

9〔愛する者よ、〕年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロ〔は、〕10監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。12わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。13本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、14あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。15恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。16その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
 
17だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。

(註) 9キリスト・イエスの囚人……「キリストに捕らえられている」ということと「キリストゆえに囚人となっている」ことの両方の意味がある。この手紙は獄中から書かれたものであるが、その場所は定かではない。

(註)16奴隷……当時の社会は奴隷制度によって成り立っていた。パウロはこの制度自体を完全に否定しているわけではないが、奴隷制度を超える道を示している。

 

 

                              〔この塔と王のたとえはルカだけが伝えるもの。イエスはエルサレムへ向かう旅、十字架を経て天に向かう旅を続けている。従う人々へのイエスのことばは厳しさを増してきている。〕

福音朗読        ルカによる福音書

自分の持ち物を一切捨てないならば、わたしの弟子ではありえない。

(14章2533節)

ルカによる福音

  25〔そのとき、〕大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」 

(註)26憎まないなら……「憎む」はここでは、「より少なく愛する」という意味。マタイによる福音書1037節参照。

(註)28まず腰を据えて……次のたとえ(31節)でも繰り返されるこのことばは、この二つのたとえ話のメッセージの中心であると考えられる。

 (オリエンス宗教研究所発行「聖書と典礼」2016 9 4より)

 

 

◇被造物を大切にする世界祈願日(9月の第1日曜日)

 回勅『ラウダート・シ──ともに暮らす家を大切に』(2015年)で、全世界の人に向けて、エコロジー(自然保護)に取り組むよう訴えた教皇フランシスコは、東方正教会にならって、環境保護のための助けを願う日をカトリック教会の暦に加えました。
 地球規模の環境悪化が進む中、自然を破壊することなく、「わたしたち皆の家」である地球を大切にし、調和のうちに発展していくことができるよう、この日、全世界のカトリック教会で祈りがささげられます。
いのちの与え主である神に賛美と感謝をささげるとともに、自然を大切にする視点から、ライフスタイルを見直し、考え方を改める機会としていきたいものです。

(カトリック中央協議会刊『毎日のミサ』2016年9月号 より)

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